■旅日誌
[1995/3] 西へ、東へ
(記:2000/5/15 改:2015/11/1)
(記:2000/5/15 改:2015/11/1)

1月17日の早朝、そのニュースを聞いたときは日本中が震撼しました。まるでSF映画のような光景がTVに映し出されたときのショックは忘れることができません。阪神淡路大震災では多くの方が被害に遭われました。そのときの自分は、義援金を送ることくらいしかできませんでしたが、2ヶ月ほど経った後にたまたま関西方面へ出張する機会があり、自分の目で事実を見てこようと思い足を延ばしました。実は金沢と仙台にも用事があったのですが、なぜか山形を経由してついでの用も済ませようと企み、陸路大回りすることになりました。
1日目
朝起きたら雪が降っていた。やや季節外れの大雪だ。まず一番心配なのは新幹線が動いているかどうかだが、どうにか粘って止まらないでいるらしい。結構ハードなスケジュールを組んでしまっていたので、出鼻をくじかれるとかなり痛い。意地でも大阪にたどりつきたい。
同行する上司とは最初から現地集合の予定だったのでちょっと心配だったが、連絡が取れないまま大阪までやって来た。大阪はウソみたいにいい天気だ。現地に入り午後一の会議へ出席する。そこにいていいはずの上司はとうとう間に合わなかった。新幹線に遅れは出ていたものの何時間も遅れていたわけではなく、どうも東京駅に出るまでに引っ掛かっていたらしい。しばらくしたところでバツが悪そうに上司は登場した。会議というよりもどちらかというと説明会のようなもので、もともと自分が全部しゃべるつもりだったので支障はないのだが、現場の反応や周囲の動きを実際みてもらうことが目的だった。
大阪での用事は終わったが、明日は朝一で金沢なので今日中に移動しなければならない。なぜか上司は京阪→御堂筋線まわりで新大阪へ向かうというので途中まで一緒に行くことにした。梅田で別れてこの先の切符を買いに大阪駅のみどりの窓口へ向かう。こうして旅先で大回りの切符を買うというのも、そうあることではない。
金沢へ向かう前に神戸方面へ行ってみることにした。あの震災から2ヶ月近く経とうというのに、大阪-神戸間の鉄道はどこも途中で切れている。まずは阪神に乗り、いま行ける最後の駅である御影まで出る。途中までは特に変わった様子もなかったが、急に青いビニールシートで覆われた屋根が目立ち始める。そのうち電車は徐行運転となり、あたりの景色も一変する。御影駅で外に出ると、何とも言いようのない光景が広がっていた。原型を留めてない建物、一見無事のように見えてもどこか傾いてしまった建物、とにかく街中で垂直と水平の感覚が歪んでしまっている。歩いてるだけで気分がおかしくなりそうだった。決して冷やかしで来たわけではなく、歴史的な事実としてこの目に焼き付けておきたかったのだが、何もできずにただ言葉を失うしかない自分の無力さに苛立ちも感じた。ちっぽけな崩れかけた平屋の外壁に赤い文字で無事であることと連絡先が記されていたのを目にしたときは思わず涙が出そうになった。
何分程歩いたか分からないが、とりあえずJR住吉駅までやってきた。大阪方面へのJRはここから運転されている。満員の乗客を乗せ新快速はスピードを抑さえ気味で発車となった。先程とは逆に気がつけば被災地を抜けてしまっていたが、被害を受けた場所はそれほど局所的だったのだろうか?大阪へ着いたときはすっかり日も暮れていた。一段と気温も下がっていたようだが、これから金沢へと移動する。琵琶湖の景色もただ卓袱の闇の中で、先程見てきたあの光景を思い出しながらしばらくぼんやりしていた。金沢へ着いたときは雪が舞っていた。水分を多く含んだぼた雪はかすかな春を予感させてくれる。とはいえ、東京に比べると気温は一段と低い。体調を崩してもしょうがないので、今晩は暖かくしてゆっくり休むことにしよう。(後日談:その後、引退間際の485系雷鳥に乗る機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
同行する上司とは最初から現地集合の予定だったのでちょっと心配だったが、連絡が取れないまま大阪までやって来た。大阪はウソみたいにいい天気だ。現地に入り午後一の会議へ出席する。そこにいていいはずの上司はとうとう間に合わなかった。新幹線に遅れは出ていたものの何時間も遅れていたわけではなく、どうも東京駅に出るまでに引っ掛かっていたらしい。しばらくしたところでバツが悪そうに上司は登場した。会議というよりもどちらかというと説明会のようなもので、もともと自分が全部しゃべるつもりだったので支障はないのだが、現場の反応や周囲の動きを実際みてもらうことが目的だった。
大阪での用事は終わったが、明日は朝一で金沢なので今日中に移動しなければならない。なぜか上司は京阪→御堂筋線まわりで新大阪へ向かうというので途中まで一緒に行くことにした。梅田で別れてこの先の切符を買いに大阪駅のみどりの窓口へ向かう。こうして旅先で大回りの切符を買うというのも、そうあることではない。
金沢へ向かう前に神戸方面へ行ってみることにした。あの震災から2ヶ月近く経とうというのに、大阪-神戸間の鉄道はどこも途中で切れている。まずは阪神に乗り、いま行ける最後の駅である御影まで出る。途中までは特に変わった様子もなかったが、急に青いビニールシートで覆われた屋根が目立ち始める。そのうち電車は徐行運転となり、あたりの景色も一変する。御影駅で外に出ると、何とも言いようのない光景が広がっていた。原型を留めてない建物、一見無事のように見えてもどこか傾いてしまった建物、とにかく街中で垂直と水平の感覚が歪んでしまっている。歩いてるだけで気分がおかしくなりそうだった。決して冷やかしで来たわけではなく、歴史的な事実としてこの目に焼き付けておきたかったのだが、何もできずにただ言葉を失うしかない自分の無力さに苛立ちも感じた。ちっぽけな崩れかけた平屋の外壁に赤い文字で無事であることと連絡先が記されていたのを目にしたときは思わず涙が出そうになった。
何分程歩いたか分からないが、とりあえずJR住吉駅までやってきた。大阪方面へのJRはここから運転されている。満員の乗客を乗せ新快速はスピードを抑さえ気味で発車となった。先程とは逆に気がつけば被災地を抜けてしまっていたが、被害を受けた場所はそれほど局所的だったのだろうか?大阪へ着いたときはすっかり日も暮れていた。一段と気温も下がっていたようだが、これから金沢へと移動する。琵琶湖の景色もただ卓袱の闇の中で、先程見てきたあの光景を思い出しながらしばらくぼんやりしていた。金沢へ着いたときは雪が舞っていた。水分を多く含んだぼた雪はかすかな春を予感させてくれる。とはいえ、東京に比べると気温は一段と低い。体調を崩してもしょうがないので、今晩は暖かくしてゆっくり休むことにしよう。(後日談:その後、引退間際の485系雷鳥に乗る機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
2日目
今朝の冷え込みはそれ程ではないようだったが、やはり東京の朝とは違う。予定通り午前中に組まれた仕事をすべて済ませ陸路山形まで移動する。この時間なので、一旦東京に戻ってあらためて明日出向いてもいいのだが、普段忙しいのでちょっと大目にみてもらい職場からしばらく離れる段取りを組んでいた。ちょうどタイミングよく白鳥が捕まるので一気に新潟まで行くことができた。大阪-青森を乗り通すというのはどれ程のことなのか想像がつかないが、やってみたいような気もしないでもない。(後日談:説明するまでもありませんが、白鳥は大阪-青森を結ぶ昼間の特急で、もちろん走行距離は最長でした。何かと話題になる特急でしたが、残念ながら引退してしまいました。)指定を取った座席はリニューアル車両でゆったりとしていたが、シートピッチと窓枠の大きさが合わないというよくあるパターンだった。人の出入り具合をしばらく見ていたが、停車駅ごとに結構入替えはあるようだ。
新潟で米坂線の快速に乗り換える。厳密にいうと米坂線の起点は新潟ではないのだが、この快速は新潟まで直通している。座席が埋まるどころか立ち客が出るほど混雑していた。しばらく快調にすっ飛ばしていたのは高規格な路線が続いてたためで、米坂線に入ったとたんに鈍足に変わってしまう。新潟を出発するときは未だ西日がまぶしかったが、ペースが鈍るのと同じくして外は暗くなっていった。停車するたびにどんどん人は降りていき、あれ程混雑していたのがウソのように静まり返っている。何も見えないローカル線にただ揺られてるというのも退屈なだけでまったく面白くない。景色がいいところなので、ここはもう一度来なければならないか…。(笑)(後日談:米坂線に再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
今日の締めくくりとして、米沢で山形新幹線に乗り換える。真っ暗な中、遠くから3点ライトを照らしてつばさが近づいてきた。この新幹線が開業してから、初めての乗車となる。外の景色はまったく見えないが、乗り心地は悪くなかった。以前通ったときの景色を思い起こすと、ぜひここも昼間に乗り通さなければならない。(後日談:その後、山形新幹線は仕事でも何回か乗る機会があり馴染みの列車となりましたが、やがてその初代つばさも引退…。時の流れを感じます。最後に400系つばさに乗ったときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
新潟で米坂線の快速に乗り換える。厳密にいうと米坂線の起点は新潟ではないのだが、この快速は新潟まで直通している。座席が埋まるどころか立ち客が出るほど混雑していた。しばらく快調にすっ飛ばしていたのは高規格な路線が続いてたためで、米坂線に入ったとたんに鈍足に変わってしまう。新潟を出発するときは未だ西日がまぶしかったが、ペースが鈍るのと同じくして外は暗くなっていった。停車するたびにどんどん人は降りていき、あれ程混雑していたのがウソのように静まり返っている。何も見えないローカル線にただ揺られてるというのも退屈なだけでまったく面白くない。景色がいいところなので、ここはもう一度来なければならないか…。(笑)(後日談:米坂線に再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
今日の締めくくりとして、米沢で山形新幹線に乗り換える。真っ暗な中、遠くから3点ライトを照らしてつばさが近づいてきた。この新幹線が開業してから、初めての乗車となる。外の景色はまったく見えないが、乗り心地は悪くなかった。以前通ったときの景色を思い起こすと、ぜひここも昼間に乗り通さなければならない。(後日談:その後、山形新幹線は仕事でも何回か乗る機会があり馴染みの列車となりましたが、やがてその初代つばさも引退…。時の流れを感じます。最後に400系つばさに乗ったときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
3日目
朝一で山形に寄る予定が直前に差し替わったため、これから一度仙台に出なければならない。1時間もあれば仙山線で仙台に行けるのでそれ程慌てる必要もない。仙台でこの出張3つめの用事をこなし、再び山形へ戻る。その前に何を思ったか、昼飯をゆっくり食らうくらいなら少しでも遠くへ行ってみようと決心し、仙石線に乗ってしまった。傍から見るとハードなスケジュールのように思えるかもしれないが、生来の旅好きがものを言って、逆にそれを楽しんでいるというのが正直なところだった。(余談:この仙山線往復ですっかりこの区間がお気に入りになってしまいました。)
最後の山形での用事を済ませたところで、ひと頑張りして左沢線を往復する。結局山形では挨拶程度のことしかできなかったが、これから先も話しを続けていくいいきっかけになった。昨日の山形新幹線は真っ暗闇の中でまったく様子が分からなかったが、あらためて福島まで乗り通すことにする。といっても、今日ももう夕暮れどきでじきに暗くなってしまうだろう。ちょっと残念な気もする。福島まで下りきったところでつばさは新幹線へと入って行く。こうやって幹在直通する新幹線というのも、何だか不思議な感じがした。苦し紛れと揶揄する向きもなくもないが、アイデアとしてはなかなかいけてると思う。
一旦、つばさを後にして、今夜は"下"で郡山まで向かう。新幹線はあらためて別の機会に全部乗り通すことにしよう。もう3月だというのに気温はぐっと低く、今日も外は雪が舞っているようだった。山形、仙台にいるときはさほど感じはしなかったが、まだまだ冬といったところかもしれない。郡山駅を降りると街はみぞれ模様で、何だかとても冷たい印象のする場所だった。さすがに旅の疲れもたまってきたようで、今晩は早めに休むことにしよう。
最後の山形での用事を済ませたところで、ひと頑張りして左沢線を往復する。結局山形では挨拶程度のことしかできなかったが、これから先も話しを続けていくいいきっかけになった。昨日の山形新幹線は真っ暗闇の中でまったく様子が分からなかったが、あらためて福島まで乗り通すことにする。といっても、今日ももう夕暮れどきでじきに暗くなってしまうだろう。ちょっと残念な気もする。福島まで下りきったところでつばさは新幹線へと入って行く。こうやって幹在直通する新幹線というのも、何だか不思議な感じがした。苦し紛れと揶揄する向きもなくもないが、アイデアとしてはなかなかいけてると思う。
一旦、つばさを後にして、今夜は"下"で郡山まで向かう。新幹線はあらためて別の機会に全部乗り通すことにしよう。もう3月だというのに気温はぐっと低く、今日も外は雪が舞っているようだった。山形、仙台にいるときはさほど感じはしなかったが、まだまだ冬といったところかもしれない。郡山駅を降りると街はみぞれ模様で、何だかとても冷たい印象のする場所だった。さすがに旅の疲れもたまってきたようで、今晩は早めに休むことにしよう。
4日目
朝起きると今朝もちらちらと雪が舞っていた。もちろん気温も低く、冬場の寒さに不慣れな体にとってはとても身にしみる。まっすぐ郡山駅までやってきて今日はここからスタートする。といってもまっすぐ帰るのではなく、新潟へ抜けるルートを考えていた。
まず最初に磐越西線の快速で会津若松まで向かう。地面に積もった真っ白な雪が目を刺激する。晴上がれば磐梯山の素晴らしい眺望が見られるところだが、今日はそうもいかないようだった。とはいえ、会津若松に近づくにつれ雪は弱くなってきた。会津若松は何路線も集結する大きな駅であり、磐越西線もスイッチバックする形で走る向きが逆になる。この先喜多方までが電化区間なのだが、今度の新津方面の列車はここ会津若松が始発駅で、昼飯の調達ついでに乗り換えることにする。キハに乗り換え喜多方を過ぎると一気にローカル線の雰囲気となる。阿賀野川沿いに続くこの路線は「森と水の路線」などと言われることがあるが、磐梯山や猪苗代湖のあたりとはまた違った風景が楽しめる。気がつけば空は晴れ渡り、まったく雪など降ってきそうな感じはしない。雄大な阿賀野川をのんびり眺めながら、ちょっと早めの昼食をとることにした。(後日談:その後、SLばんえつ物語号に乗る機会がありました。磐越西線に再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
のんびりとした風景が続く中、柔らかな日差しで車内の気温は上がり適度な満腹感も手伝って少々まったりしていたところで急ブレーキがかかり列車は急停車した。みな何ごとかと思って前方を見守っていると、車が踏切内に入り急停車したとのこと。幸いにも大きな事故には至らずひと安心した。安全確認のためその場に10分程停車し、この先の到着は遅れることになった。車内で新幹線の特急券を買い求めると、普通に薄っぺらな補充券が手渡された。こんなところで特急券を買う客なんぞ珍しいのだろうか、車掌は新潟からの新幹線の時刻をかなり詳しく案内してくれた。結局、新潟には7分遅れで到着、当初あてにしていた2階建てMAXは席が埋まっていたため諦めることにした。今日はもうここから帰京するだけなので、1本後にしてもどおってことはない。
普段から新潟にはあまり用はないので、こうやって上越新幹線に乗るのも初めてのことだった。この先も乗る機会はそうはないだろう。新潟を出てしばらくは見晴らしのいい場所が続く。見晴らしがいいというより、田んぼが続く越後平野の真っ只中を直進する格好だ。やがて長岡を過ぎたところから、越後山脈を突き抜けるためトンネルが続く。よくもまぁこんなものを…と言えなくもないが、立派なものを造ったものだ。別に昔の政治家を批判するつもりはないが、豪雪をもろともせずに東京に直結するのだから地元にとってはその価値は計り知れない程大きい。
やや疲れは残っていたが、まだ日も高く今日はこれから会社に戻ることにした。神戸のあの光景はしばらく忘れられそうもないが、東京に着いてしまえば、そこにはいつもの日常が待っている。時間の経過というのはどんな人にも公平にやってくるものだが、世の中すべてが公平ではないということをあらためて認識させられる数日間だった。
まず最初に磐越西線の快速で会津若松まで向かう。地面に積もった真っ白な雪が目を刺激する。晴上がれば磐梯山の素晴らしい眺望が見られるところだが、今日はそうもいかないようだった。とはいえ、会津若松に近づくにつれ雪は弱くなってきた。会津若松は何路線も集結する大きな駅であり、磐越西線もスイッチバックする形で走る向きが逆になる。この先喜多方までが電化区間なのだが、今度の新津方面の列車はここ会津若松が始発駅で、昼飯の調達ついでに乗り換えることにする。キハに乗り換え喜多方を過ぎると一気にローカル線の雰囲気となる。阿賀野川沿いに続くこの路線は「森と水の路線」などと言われることがあるが、磐梯山や猪苗代湖のあたりとはまた違った風景が楽しめる。気がつけば空は晴れ渡り、まったく雪など降ってきそうな感じはしない。雄大な阿賀野川をのんびり眺めながら、ちょっと早めの昼食をとることにした。(後日談:その後、SLばんえつ物語号に乗る機会がありました。磐越西線に再訪したときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
のんびりとした風景が続く中、柔らかな日差しで車内の気温は上がり適度な満腹感も手伝って少々まったりしていたところで急ブレーキがかかり列車は急停車した。みな何ごとかと思って前方を見守っていると、車が踏切内に入り急停車したとのこと。幸いにも大きな事故には至らずひと安心した。安全確認のためその場に10分程停車し、この先の到着は遅れることになった。車内で新幹線の特急券を買い求めると、普通に薄っぺらな補充券が手渡された。こんなところで特急券を買う客なんぞ珍しいのだろうか、車掌は新潟からの新幹線の時刻をかなり詳しく案内してくれた。結局、新潟には7分遅れで到着、当初あてにしていた2階建てMAXは席が埋まっていたため諦めることにした。今日はもうここから帰京するだけなので、1本後にしてもどおってことはない。
普段から新潟にはあまり用はないので、こうやって上越新幹線に乗るのも初めてのことだった。この先も乗る機会はそうはないだろう。新潟を出てしばらくは見晴らしのいい場所が続く。見晴らしがいいというより、田んぼが続く越後平野の真っ只中を直進する格好だ。やがて長岡を過ぎたところから、越後山脈を突き抜けるためトンネルが続く。よくもまぁこんなものを…と言えなくもないが、立派なものを造ったものだ。別に昔の政治家を批判するつもりはないが、豪雪をもろともせずに東京に直結するのだから地元にとってはその価値は計り知れない程大きい。
やや疲れは残っていたが、まだ日も高く今日はこれから会社に戻ることにした。神戸のあの光景はしばらく忘れられそうもないが、東京に着いてしまえば、そこにはいつもの日常が待っている。時間の経過というのはどんな人にも公平にやってくるものだが、世の中すべてが公平ではないということをあらためて認識させられる数日間だった。