■旅日誌
[1999/3] 九州めぐり
(記:2003/1/28 改:2022/1/2)
(記:2003/1/28 改:2022/1/2)

さていよいよ九州行きである。九州へはたまに出張で行くくらいであまり用事はないのだが、自ら計画して動きまわるのは今回が初めてだった。JR分割後から九州はユニークな車も投入しているが、実際どんなものなのかいくつか試してみたいというのもあった。ところで別に気にはしてなかったが、あまり行ったことのないところを基本的に目指す…というのが、いつの間にか当面の目標はJR完乗(?)のような感じになっていて、事前に練ったスケジュールを見ると明らかにその傾向がみられ自分でも呆れてしまった。
1日目
思えばネクタイをしないで飛行機に乗った記憶がほとんどない。それ程飛行機は自分に縁のないものだった。(後日談:ところが今では、ネクタイを締めて飛行機に乗ることがまったくなくなりました。)平日の朝の羽田空港の滑走路はいつものように離陸の順番待ちで渋滞を起こしている。今日は天気がいいので眼下の眺めもいいはずだ。時計を持たない主義なので分からないが何分か遅れて離陸したようだった。
福岡空港へは何度か来たことがあるが、ここ程便利な空港はない。無事着陸したのはいいが、ゲートに着けるためにこっちの空港でも渋滞にはまってしまった。まぁ事故じゃないからいいのだが、このまま4、5分待つようなアナウンスがあった。立ち上がったままいらいらしている人もいたがようやく開放された。どれほど遅れたものか気になったが、とりあえず慌てて地下鉄に飛び乗った。博多に着いてみれば大体いい感じのタイミングであった。まずは食料を買込む。まだ時間があったので近くの旅行会社まで行って、財布の中で随分と長い間忘れられてた金券を使って博多→小倉の新幹線の切符を買うことにした。どうしてか分からないが、肝心なときになるとこの金券の存在を忘れてしまい、いつもいつも、まぁ次使えばいいさ…と思っているだけでようやく手元から解き放つことができた。(余談:当時に比べ最近はギフトカードの出入りが多くなってますね。)さて、どうでもいい話はこの辺にしてと、、、
スケジュールを立てるときが一番楽しいというが、今回も久しぶりに大物スケジュールを立てることになったので、あれこれアイデアをひねくり返していた。まず最初に一気に鹿児島まで移動してしまうことする。鹿児島本線の看板列車でもあるつばめに乗るために列を待った。最近、博多-熊本間の特急が20分ヘッドになったと案内されているのを目にした。つばめを待つホームで1本前の熊本行きの有明を見送る。グレーの配色はつばめと同じ車両なのだろう。発車したあと続いて今回のトップバッターが入ってきた。早速中に乗り込むと某東の会社に比べ九州の質の高さを実感する。荷物を乗せる網棚が飛行機のようにカバーつきのボックスになっているところなど、なかなか凝ったつくりかもしれない。乗車率は60~70%程度だろうか、走り出してから昼食をとり、そのあとビュッフェをのぞいてみた。熊本で客の入替えが大きくあり、乗車率はぐっと落ちたように思えた。八代、水俣を経てしばらくして海が見えてきた。東シナ海に面したところを気がつけば単線で走っている。出水や川内など地名は聞くが、随分遠くへ来たものだと感じた。知らないうちに鹿児島県に入っていたようだ。
ロングランで西鹿児島までやってきた。写真などで目にした昔のイメージからは程遠いが、すっきりした赤い駅舎に立て替えられていた。今日はここから熊本まで戻ることにしているが、肥薩線回りを考えている。まずは西鹿児島から隼人まで特急で移動する。わずか3両の特急は花形路線から退いた後、緑色に化粧し直した車両だった。錦江湾の大きな風景の向こうに桜島を見ることができた。特急、特急と乗り継いできたが、隼人駅から吉松行きのローカル線に乗り換える。既に通学帰りの学生で車内はいっぱいだった。西日を受けながら奥へ奥へと進んでいくが、日も沈みかけ木々も深々となってくるにつれ徐々に暗くなってきた。吉松に着く頃にはすっかり日は落ちていた。ここで吉都線から入ってくる急行に乗り継ぎ、終点の熊本まで今日は行くことにしている。人吉あたりで宿をとってもよかったのだが、八代まで行かないと未乗区間が残ってしまう。また吉都線の本数も意外と少ないため効率よくまわる方法も考えておきたかった。更には、実は一番大事なことなのだが夜の移動で眺めのいいところを真っ暗闇でやり過ごすのも残念なことだ。ここから先の風景は日本でも屈指と言われていたが、明日あらためてここを通るスケジュールを組んでいた。なので、とりあえず今は黙って通過することにしている。そんなこんなのスケジュールだったため、熊本に着いたのは結構遅い時間になってしまっていた。
福岡空港へは何度か来たことがあるが、ここ程便利な空港はない。無事着陸したのはいいが、ゲートに着けるためにこっちの空港でも渋滞にはまってしまった。まぁ事故じゃないからいいのだが、このまま4、5分待つようなアナウンスがあった。立ち上がったままいらいらしている人もいたがようやく開放された。どれほど遅れたものか気になったが、とりあえず慌てて地下鉄に飛び乗った。博多に着いてみれば大体いい感じのタイミングであった。まずは食料を買込む。まだ時間があったので近くの旅行会社まで行って、財布の中で随分と長い間忘れられてた金券を使って博多→小倉の新幹線の切符を買うことにした。どうしてか分からないが、肝心なときになるとこの金券の存在を忘れてしまい、いつもいつも、まぁ次使えばいいさ…と思っているだけでようやく手元から解き放つことができた。(余談:当時に比べ最近はギフトカードの出入りが多くなってますね。)さて、どうでもいい話はこの辺にしてと、、、
スケジュールを立てるときが一番楽しいというが、今回も久しぶりに大物スケジュールを立てることになったので、あれこれアイデアをひねくり返していた。まず最初に一気に鹿児島まで移動してしまうことする。鹿児島本線の看板列車でもあるつばめに乗るために列を待った。最近、博多-熊本間の特急が20分ヘッドになったと案内されているのを目にした。つばめを待つホームで1本前の熊本行きの有明を見送る。グレーの配色はつばめと同じ車両なのだろう。発車したあと続いて今回のトップバッターが入ってきた。早速中に乗り込むと某東の会社に比べ九州の質の高さを実感する。荷物を乗せる網棚が飛行機のようにカバーつきのボックスになっているところなど、なかなか凝ったつくりかもしれない。乗車率は60~70%程度だろうか、走り出してから昼食をとり、そのあとビュッフェをのぞいてみた。熊本で客の入替えが大きくあり、乗車率はぐっと落ちたように思えた。八代、水俣を経てしばらくして海が見えてきた。東シナ海に面したところを気がつけば単線で走っている。出水や川内など地名は聞くが、随分遠くへ来たものだと感じた。知らないうちに鹿児島県に入っていたようだ。
ロングランで西鹿児島までやってきた。写真などで目にした昔のイメージからは程遠いが、すっきりした赤い駅舎に立て替えられていた。今日はここから熊本まで戻ることにしているが、肥薩線回りを考えている。まずは西鹿児島から隼人まで特急で移動する。わずか3両の特急は花形路線から退いた後、緑色に化粧し直した車両だった。錦江湾の大きな風景の向こうに桜島を見ることができた。特急、特急と乗り継いできたが、隼人駅から吉松行きのローカル線に乗り換える。既に通学帰りの学生で車内はいっぱいだった。西日を受けながら奥へ奥へと進んでいくが、日も沈みかけ木々も深々となってくるにつれ徐々に暗くなってきた。吉松に着く頃にはすっかり日は落ちていた。ここで吉都線から入ってくる急行に乗り継ぎ、終点の熊本まで今日は行くことにしている。人吉あたりで宿をとってもよかったのだが、八代まで行かないと未乗区間が残ってしまう。また吉都線の本数も意外と少ないため効率よくまわる方法も考えておきたかった。更には、実は一番大事なことなのだが夜の移動で眺めのいいところを真っ暗闇でやり過ごすのも残念なことだ。ここから先の風景は日本でも屈指と言われていたが、明日あらためてここを通るスケジュールを組んでいた。なので、とりあえず今は黙って通過することにしている。そんなこんなのスケジュールだったため、熊本に着いたのは結構遅い時間になってしまっていた。
2日目
今日しばらくは昨日通ったルートを逆に辿っていく。ただ、うまい接続が見つからなかったので若干のんびり目のスケジュールにしていた。熊本駅には9時半過ぎくらいまでには戻ってくればいいので、ちょっとだけ遠回りして熊本電鉄を見にいくことにした。まだ活動前の商店街を抜けて藤崎宮前まで歩いてみる。駅はあまり目立たないところにあったがすぐに分かった。切符を買ってと思ったが、整理券しか発行していない。まったく予備知識がなかったので驚いたが、旧東急5000系が現役で働いてるではないか。すっかりこちらの塗装に馴染んでいたが間違えはない。まさかこんなところでこの車に乗れるとは思ってもみなかった。こんなことならもっと早起きして終点まで往復するんだったなぁ~とちょっとだけ後悔する。早起きは三文の得というのは本当らしい。とはいえ、仕方ないので北熊本で上熊本方面へ乗り換える。接続待ちしてたのも同系の車だった。朝日がキラキラと差込む中、遠い昔お世話になった古株にしばらくの間揺られていた。上熊本から熊本へ1駅だけ普通列車で移動する。途中高台にでっかい木と野球場が見えた。あれが藤崎台球場だったのだろうか。
その昔、鉄道は嫌われ者だった。どうしても鉄道を敷きたいというなら駅は街外れにでも作っておけ…といったような扱いだったに違いない。確かに、もくもくと煙を立てた化け物が町のど真ん中を突き抜けるなんてとんでもないことだったのだろう。熊本駅も例外ではなく、町の中心部から随分とかけ離れている。街中は路面電車が走っているが、九州にはまだこうした光景を何箇所かで見ることができる。さて、あらためて肥薩線方面の列車に乗ることにする。ここでは、全国的にもすっかり少数派となってしまった急行列車が結構幅をきかせている。(後日談:その後しばらくしたら、ご多分に漏れず廃止の一途をたどることになりました。)アクアライナーとかいうサブタイトル(?)のついた車両に乗り込むが、座席が横や斜めに配置され奇妙な内装もぎこちなくちょっと落ち着いた感じがしない。八代までは本線を走るので快調に飛ばしていたが、その先からはローカル線の姿に変わる。しばらく球磨川沿いの区間が続く。緑濃い水面は悠然としていた。急行列車という割にはこまめに停車をして乗客を下ろしていくので鈍行のようにも思えてくる。終点の人吉に着く頃はすっからかんに近かった。
人吉のようなところでぜひ街歩きをしてみたかったが、残念なことにここでの余裕はあまりない。(後日談:その後、人吉にはあらためて来る機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)行程に組入れるか悩んでいたが、ここまで来れる機会はそうはないだろうということで、くま川鉄道を往復しておく。第三セクターに転換されたがJRへの直通列車が残っておりレールはつながっている。"勘当"されレールが切り離されることが多い中、珍しいパターンかもしれない。乗り換え時間はわずかなので、すぐに可愛いレールバスに乗り込む。運転士の帽子を見るとカーボーイハットのようなおかしな形をしていた。この日の運転士さんは似合っていたが、人によっては似合わないかもしれない。余計な心配をしてしまった。大きく平坦な地形のなかを進んで行き終点の湯前までやってきた。のどが渇いたので自販機でジュースを買うとホットのオレンジジュースが出てきた。九州ではこういうものを売っているのだろうか、これで正解なのか誰か教えて欲しい。ログハウス風の駅に小雨がぱらついてきた。遠くの山々が近く見える。特に何をするでもなく来た道を引返すことにする。
人吉に戻り、再び肥薩線を南下していく。ここから吉松までの間は景色のいいところで全国的にも有名だが、裏を返せば鉄道には不向きな地形が続くともいえる。こんど乗る列車にはいさぶろうという愛称がついている。ちなみに上りはしんぺいという名前に変わる。最初は何のことだか分からなかったが、この地にゆかりのある先人の名前を取ったものだということをこの後知ることになる。実際には小振りのキハ単行が普通列車として吉松との間を往復するだけなのだが、テープでの案内放送つきの観光列車であった。本数が少ないので地元の人も普段の便として利用しているのだが、所要時間を見てみるとかなり余裕を持たせてある。人吉を発ちすぐに案内放送が始まり由来や肥薩線の歴史、ビューポイントなどを紹介していた。昨晩は夜だったのでまったく気がつかなかったが、勾配もカーブもきついことがよく分かる。車両も昨日の急行タイプのものに比べれば非力なので、スピードはまったく出ていない。SLの能力ギリギリのところで設計されたというのもうなずける。ひたすら登り続け、大畑駅に到着した。民家などありそうにも思えなかったが、地元客と思われる2人組みが降りていった。自分も含め2、3人だけ残されたが、明らかに観光目当ての様相である。大畑駅はループ線の途中にあり、なおかつスイッチバックという珍しい配線の駅だ。かつてここが鹿児島本線だったいう名残でスイッチバックする引込み線も立派なものが残っている、ぐるっとまわりながらループ線を登っていく。途中、ループの下の線を乗り越えるところで、徐行運転のサービス(?)がある。その先も日本三大車窓と案内されたところでも徐行運転をしていた。天気がよければ桜島まで見渡せるというが、そこまで遠くは見えなかった。しかしながらこの大パノラマは圧巻だ。更にスイッチバックの駅あり、SLの保存された駅ありと見学時間を考慮した停車を繰り返していく。運転手も手慣れたもので、停車中もポイントポイントでの案内をしてくれた。そんな感じなので所要時間は余計にかかってしまうが、なかなか見ごたえのある路線だった。ただ忘れてはいけないのは、こうして観光できるのも先人たちの命がけの努力があってからこそである。ここは素直に敬意を表したい。(後日談:その後、しんぺい号に乗車する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
吉松から吉都線に乗り換える。ここでの接続時間は余裕があり過ぎてちょっとヒマを持て余すことになる。人吉での乗り換えが慌しかったので何も食料を調達していなかった。昨日ホームで駅弁の手売りをしていたのであてにしていたのだが外れてしまった。いまは売店すらやっていない。駅前に出てみても目ぼしいお店もなかった。仕方ないので諦めることにする。都城へ向けようやく吉都線が走りだした。霧島山系の中を抜けていくのだが、先程までの風景に比べれば単調に思えた。都城へ着くと熊本行きの急行と交換になった。昨日乗った便である。日豊本線上は快速扱いなので通学の学生を運んでいた。ここから宮崎方面へ抜けたいところだが、そうすると鹿児島方面への一部区間が未乗のまま残ってしまう。あとでフォローしてもいいのだが、見通しが立つわけでもないので折返しておくことにした。接続よく西鹿児島行きの特急が来ることも分かっていたのでこれを利用し今夜の宿は鹿児島にしてある。
徐々に夕闇が迫ってきて、桜島が見える頃には噴煙を上げてる山頂付近だけが西日に照らされていた。熊本同様、鉄道の駅と鹿児島の街の中心は離れたところにある。西鹿児島からなら歩けないこともないが、ひとつ手前の鹿児島駅で降りて路面電車で繁華街の方へ行くことにした。鹿児島駅は港に近いようだが、路面電車の起点でもあった。女子高校生がバイトか何かで車内の清掃をしてるのかと思いきや、れっきとした運転手だった。こりゃ失礼。当たり前だが、路面電車独特のマスコンさばきもお手のものだった。路線バスのようにすれ違いざまに運転手同士軽く合図を交わすが、この運転手アイドル級の人気者というかすれ違うおっさん運転手どもはみな一様に笑顔である。中には両手でピースまでする者もいた。職場の華という言葉があるが、大いに結構…かな?あ、別に他意はないのでセクハラ論者などと攻め立てないでください。(笑)
その昔、鉄道は嫌われ者だった。どうしても鉄道を敷きたいというなら駅は街外れにでも作っておけ…といったような扱いだったに違いない。確かに、もくもくと煙を立てた化け物が町のど真ん中を突き抜けるなんてとんでもないことだったのだろう。熊本駅も例外ではなく、町の中心部から随分とかけ離れている。街中は路面電車が走っているが、九州にはまだこうした光景を何箇所かで見ることができる。さて、あらためて肥薩線方面の列車に乗ることにする。ここでは、全国的にもすっかり少数派となってしまった急行列車が結構幅をきかせている。(後日談:その後しばらくしたら、ご多分に漏れず廃止の一途をたどることになりました。)アクアライナーとかいうサブタイトル(?)のついた車両に乗り込むが、座席が横や斜めに配置され奇妙な内装もぎこちなくちょっと落ち着いた感じがしない。八代までは本線を走るので快調に飛ばしていたが、その先からはローカル線の姿に変わる。しばらく球磨川沿いの区間が続く。緑濃い水面は悠然としていた。急行列車という割にはこまめに停車をして乗客を下ろしていくので鈍行のようにも思えてくる。終点の人吉に着く頃はすっからかんに近かった。
人吉のようなところでぜひ街歩きをしてみたかったが、残念なことにここでの余裕はあまりない。(後日談:その後、人吉にはあらためて来る機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)行程に組入れるか悩んでいたが、ここまで来れる機会はそうはないだろうということで、くま川鉄道を往復しておく。第三セクターに転換されたがJRへの直通列車が残っておりレールはつながっている。"勘当"されレールが切り離されることが多い中、珍しいパターンかもしれない。乗り換え時間はわずかなので、すぐに可愛いレールバスに乗り込む。運転士の帽子を見るとカーボーイハットのようなおかしな形をしていた。この日の運転士さんは似合っていたが、人によっては似合わないかもしれない。余計な心配をしてしまった。大きく平坦な地形のなかを進んで行き終点の湯前までやってきた。のどが渇いたので自販機でジュースを買うとホットのオレンジジュースが出てきた。九州ではこういうものを売っているのだろうか、これで正解なのか誰か教えて欲しい。ログハウス風の駅に小雨がぱらついてきた。遠くの山々が近く見える。特に何をするでもなく来た道を引返すことにする。
人吉に戻り、再び肥薩線を南下していく。ここから吉松までの間は景色のいいところで全国的にも有名だが、裏を返せば鉄道には不向きな地形が続くともいえる。こんど乗る列車にはいさぶろうという愛称がついている。ちなみに上りはしんぺいという名前に変わる。最初は何のことだか分からなかったが、この地にゆかりのある先人の名前を取ったものだということをこの後知ることになる。実際には小振りのキハ単行が普通列車として吉松との間を往復するだけなのだが、テープでの案内放送つきの観光列車であった。本数が少ないので地元の人も普段の便として利用しているのだが、所要時間を見てみるとかなり余裕を持たせてある。人吉を発ちすぐに案内放送が始まり由来や肥薩線の歴史、ビューポイントなどを紹介していた。昨晩は夜だったのでまったく気がつかなかったが、勾配もカーブもきついことがよく分かる。車両も昨日の急行タイプのものに比べれば非力なので、スピードはまったく出ていない。SLの能力ギリギリのところで設計されたというのもうなずける。ひたすら登り続け、大畑駅に到着した。民家などありそうにも思えなかったが、地元客と思われる2人組みが降りていった。自分も含め2、3人だけ残されたが、明らかに観光目当ての様相である。大畑駅はループ線の途中にあり、なおかつスイッチバックという珍しい配線の駅だ。かつてここが鹿児島本線だったいう名残でスイッチバックする引込み線も立派なものが残っている、ぐるっとまわりながらループ線を登っていく。途中、ループの下の線を乗り越えるところで、徐行運転のサービス(?)がある。その先も日本三大車窓と案内されたところでも徐行運転をしていた。天気がよければ桜島まで見渡せるというが、そこまで遠くは見えなかった。しかしながらこの大パノラマは圧巻だ。更にスイッチバックの駅あり、SLの保存された駅ありと見学時間を考慮した停車を繰り返していく。運転手も手慣れたもので、停車中もポイントポイントでの案内をしてくれた。そんな感じなので所要時間は余計にかかってしまうが、なかなか見ごたえのある路線だった。ただ忘れてはいけないのは、こうして観光できるのも先人たちの命がけの努力があってからこそである。ここは素直に敬意を表したい。(後日談:その後、しんぺい号に乗車する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
吉松から吉都線に乗り換える。ここでの接続時間は余裕があり過ぎてちょっとヒマを持て余すことになる。人吉での乗り換えが慌しかったので何も食料を調達していなかった。昨日ホームで駅弁の手売りをしていたのであてにしていたのだが外れてしまった。いまは売店すらやっていない。駅前に出てみても目ぼしいお店もなかった。仕方ないので諦めることにする。都城へ向けようやく吉都線が走りだした。霧島山系の中を抜けていくのだが、先程までの風景に比べれば単調に思えた。都城へ着くと熊本行きの急行と交換になった。昨日乗った便である。日豊本線上は快速扱いなので通学の学生を運んでいた。ここから宮崎方面へ抜けたいところだが、そうすると鹿児島方面への一部区間が未乗のまま残ってしまう。あとでフォローしてもいいのだが、見通しが立つわけでもないので折返しておくことにした。接続よく西鹿児島行きの特急が来ることも分かっていたのでこれを利用し今夜の宿は鹿児島にしてある。
徐々に夕闇が迫ってきて、桜島が見える頃には噴煙を上げてる山頂付近だけが西日に照らされていた。熊本同様、鉄道の駅と鹿児島の街の中心は離れたところにある。西鹿児島からなら歩けないこともないが、ひとつ手前の鹿児島駅で降りて路面電車で繁華街の方へ行くことにした。鹿児島駅は港に近いようだが、路面電車の起点でもあった。女子高校生がバイトか何かで車内の清掃をしてるのかと思いきや、れっきとした運転手だった。こりゃ失礼。当たり前だが、路面電車独特のマスコンさばきもお手のものだった。路線バスのようにすれ違いざまに運転手同士軽く合図を交わすが、この運転手アイドル級の人気者というかすれ違うおっさん運転手どもはみな一様に笑顔である。中には両手でピースまでする者もいた。職場の華という言葉があるが、大いに結構…かな?あ、別に他意はないのでセクハラ論者などと攻め立てないでください。(笑)
3日目
前にも書いたが、未乗区間を残したくないのであらためて西鹿児島から日豊本線をさらっておくことにした。なので今朝は早めの始動となる。関東なんかに比べ日が昇る時間が遅いので、時差のようなものを感じる。薄暗い中みたび3両編成の緑色の特急に乗る。錦江湾から見る桜島も3度目だが、今日は分厚い曇に覆われ立ち上る噴煙が雲に吸い込まれるような感じだった。このまま宮崎入りを目指すが、霧島山系をはじめ山深いところが多く、自分が想像していた日豊本線のイメージは大きく違っていたようだ。都城を越え、南宮崎で次の列車に乗り換える。
にちりんシーガイアと名付けられた特急はよく見るとTSUBAMEのロゴが入っている。言われてみれば確かに一昨日乗ったものと同じだった。ほとんどの特急が宮崎空港始発で、宮崎まで特急券なしで乗れる処置がとられている。そのため短区間の利用をする人も多かった。宮崎でどっと乗ってきて席はあっという間に埋まってしまい、ひとつ前の南宮崎で乗り換えておいて正解だった。時折、南国を思わせる背の高いヤシの木のようなものが見える。市街だけでいいので、そこらをうろうろしてみたい気もした。今回の限られた日程で九州をすべてやっつけることはまず無理と考え、どこを落とすかの判断が必要だったが、南の指宿枕崎線とここ日南線は大きく日程から外していた。ほかにもいくつかケアできない場所はあるのだが、いずれまた来ようと思う。(後日談:その後、南九州の訪問を果たしました。旅日誌はこちらです。)
とりあえず大分まで行くことにしていたが九州の地理にはあまり詳しくないので勝手が分からず、宮崎県がこんなに縦に長いとは思わなかった。リニアモーターカーの実験線の跡地についても、そんなものがあったな…とここに来てあらためて思い出した。遺跡のような雰囲気さえ漂っていたが、いまでも何かに使っているのだろうか?波打ち際のようなところを通って、ようやく自分がイメージしていたものに近くなってきた。大分から豊肥本線で再び西へ進み熊本へ抜ける予定だが、こんどの列車が別府始発なのでとりあえず大分を越えこのまま別府まで乗ることにしていた。別府-大分間の海沿いの路線はかなりカーブもあるのだが、振り子の威力にものを言わせガンガン飛ばしていた。別府での乗り換え時間もそれほどない。ここも残念だが、街歩きのようなことは諦める。
熊本行きのDC特急は3両編成でやってきた。JR九州らしい赤を基調とした塗装ではあったが、中身的にはバリバリの…というほどではなかった。大分までいま来た海沿いのルートを戻るが、先程の振り子の特急に比べると明らかに鈍足であった。大分から先は阿蘇の北側をぐるっとまわる。天気はあまりよくなく、雄大な景色を期待していたがよく見えなかった。ちょっと残念。短編成特急の自由席の乗車率は高く、席に座れない人もいるほどだった。やがて立野の大スイッチバックに差し掛かるが、これほど規模のでかいものだとは思わなかった。南阿蘇鉄道や高千穂鉄道にも今回ケアできていないのでいつの日にかもう一度やって来たいと思う。(後日談:こちらも再訪問を果たしてます。高千穂鉄道に乗ったときの旅日誌はこちら、南阿蘇鉄道に乗ったときの旅日誌はこちらです。)ここからは比較的単調になり、山岳コースから開放され走りも軽快になった。この先は博多へまわる予定だが、三角線をスケジュールに組入れておいた。途中の宇土までは鹿児島本線上を行くので比較的飛していくのだが、その先はローカル線になり海沿いをのんびりいく感じになり、かすかに普賢岳も見ることができた。三角は天草方面へ向かう入口ともいえるところであり、沿線には海の幸を売るお店が続いていた。(後日談:あらためて三角線に乗る機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
三角線をそのまま往復し、熊本から博多へ向け戻ることにする。仕事帰り組みだろうか、座席は満員だった。このまま座っていれば博多まで行けてしまうのだが、ちょっと変化を入れるために大牟田から西鉄に乗り換えた。ずっと昔に久留米に立ち寄ったことがあったので西鉄の本線は完乗となった。ただ大牟田を発つ時点でもう暗くなってしまっていたのでいつかまた来てみたい。特に柳川近辺は街歩きもしてみたいと思う。ちょっと遅くなってしまったが、博多に戻ったら何かうまいものでも探しに行こう。
にちりんシーガイアと名付けられた特急はよく見るとTSUBAMEのロゴが入っている。言われてみれば確かに一昨日乗ったものと同じだった。ほとんどの特急が宮崎空港始発で、宮崎まで特急券なしで乗れる処置がとられている。そのため短区間の利用をする人も多かった。宮崎でどっと乗ってきて席はあっという間に埋まってしまい、ひとつ前の南宮崎で乗り換えておいて正解だった。時折、南国を思わせる背の高いヤシの木のようなものが見える。市街だけでいいので、そこらをうろうろしてみたい気もした。今回の限られた日程で九州をすべてやっつけることはまず無理と考え、どこを落とすかの判断が必要だったが、南の指宿枕崎線とここ日南線は大きく日程から外していた。ほかにもいくつかケアできない場所はあるのだが、いずれまた来ようと思う。(後日談:その後、南九州の訪問を果たしました。旅日誌はこちらです。)
とりあえず大分まで行くことにしていたが九州の地理にはあまり詳しくないので勝手が分からず、宮崎県がこんなに縦に長いとは思わなかった。リニアモーターカーの実験線の跡地についても、そんなものがあったな…とここに来てあらためて思い出した。遺跡のような雰囲気さえ漂っていたが、いまでも何かに使っているのだろうか?波打ち際のようなところを通って、ようやく自分がイメージしていたものに近くなってきた。大分から豊肥本線で再び西へ進み熊本へ抜ける予定だが、こんどの列車が別府始発なのでとりあえず大分を越えこのまま別府まで乗ることにしていた。別府-大分間の海沿いの路線はかなりカーブもあるのだが、振り子の威力にものを言わせガンガン飛ばしていた。別府での乗り換え時間もそれほどない。ここも残念だが、街歩きのようなことは諦める。
熊本行きのDC特急は3両編成でやってきた。JR九州らしい赤を基調とした塗装ではあったが、中身的にはバリバリの…というほどではなかった。大分までいま来た海沿いのルートを戻るが、先程の振り子の特急に比べると明らかに鈍足であった。大分から先は阿蘇の北側をぐるっとまわる。天気はあまりよくなく、雄大な景色を期待していたがよく見えなかった。ちょっと残念。短編成特急の自由席の乗車率は高く、席に座れない人もいるほどだった。やがて立野の大スイッチバックに差し掛かるが、これほど規模のでかいものだとは思わなかった。南阿蘇鉄道や高千穂鉄道にも今回ケアできていないのでいつの日にかもう一度やって来たいと思う。(後日談:こちらも再訪問を果たしてます。高千穂鉄道に乗ったときの旅日誌はこちら、南阿蘇鉄道に乗ったときの旅日誌はこちらです。)ここからは比較的単調になり、山岳コースから開放され走りも軽快になった。この先は博多へまわる予定だが、三角線をスケジュールに組入れておいた。途中の宇土までは鹿児島本線上を行くので比較的飛していくのだが、その先はローカル線になり海沿いをのんびりいく感じになり、かすかに普賢岳も見ることができた。三角は天草方面へ向かう入口ともいえるところであり、沿線には海の幸を売るお店が続いていた。(後日談:あらためて三角線に乗る機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
三角線をそのまま往復し、熊本から博多へ向け戻ることにする。仕事帰り組みだろうか、座席は満員だった。このまま座っていれば博多まで行けてしまうのだが、ちょっと変化を入れるために大牟田から西鉄に乗り換えた。ずっと昔に久留米に立ち寄ったことがあったので西鉄の本線は完乗となった。ただ大牟田を発つ時点でもう暗くなってしまっていたのでいつかまた来てみたい。特に柳川近辺は街歩きもしてみたいと思う。ちょっと遅くなってしまったが、博多に戻ったら何かうまいものでも探しに行こう。
4日目
残念ながら今日も朝から雨が降っていた。あらためて博多駅からスタートであるが、明らかに乗りつぶしを意識したスケジュールを組んでいた。まずは別府行きの列車になるが、久大線まわりと小さく注意書きが書いてある。ひところ急行が全盛だったころは、九州にはいろんなルートを経由する列車が数多くあったと聞く。いまとなっては妙に遠回りする列車はほとんどない。これから乗ろうとしている特急は、どちらかというとそういう部類に属しているかもしれない。またそれを利用して乗り通そうとしてる人間も奇妙な扱いをされて当然かもしれない。まぁ、そんなことはどうでもいい。自分の奇妙さは今に始まった話ではないので。
久留米までは鹿児島本線上を行くのでスピードは全然出せない。土曜日とはいえ、朝の過密ダイヤの中で頭を抑えれてしまっているのだろう。本当はリゾート特急ゆふいんの森の方に乗りたかったのだが時間が合わないので仕方ない、諦めてこちらの特急にしていた。博多を出たときはガラガラであったが、久留米を出たころには座席が埋まっていた。久大線に入り走りっぷりがちょっと変わる。耳納連山の尾根の急斜面が間近に見えてくる。晴れ渡っていればもっと綺麗に見えたかもしれない。前の座席の男4人組は盛んに何やら盛り上がっているが、話の内容からしてこの春大学を卒業したようだった。まぁいい、頑張ってくれ。(謎) しばらく川沿いが続き、由布を過ぎたあたりでぐるっと回り込んだ感じがした。徐々に下ってきて大分まで出てきた。この列車は別府行きだが次に乗り換えるのが大分始発なのでここで降りることにする。(後日談:その後、ゆふいんの森に乗る機会がありましたが、旅日誌はこちらをご覧ください。)
宮崎同様、大分もただ通り過ぎるだけになってしまった。何かのついでに来ることがあるかどうか分からないが、とりえあず今日は素通りということにする。ここからソニックに乗って再び博多を目指す。何の目的もなくただ乗りつぶすだけにぐるっとまわることになる。ソニックは言わずとも知れたJR九州の看板列車のひとつだが、外観、内装ともにユニークだと聞いていたのでまずは実際に乗ってみなければならない。中に入ってみて、なるほどと思ったが派手な配色にミッキーマウスのようなデザインの座席、確かに斬新ではある。日本にもこんな演出ができるセンスがあったのかと思うが、実際だれがデザインしたかなど知ってるはずがない。適当に座席を確保し中をうろうろしてみたが、ところどころのパーツにもこだわりがあるように感じた。昨日も通った別府までの区間をやはり振り子を効かせて走り抜いていく。昨日ほどスピード感はなかったが、足回りは軽やかだ。先程までお世話になった車を横目に見ながら別府を出発した。ここから先を乗り通せば日豊本線も全て完乗となる。その筋ではとても有名な宗太郎を通過するころから雨が強くなり、下りに遅れも出てるというアナウンスがあった。斜め前の2人組みは時刻表片手に乗り継ぎがどうのこうのと盛んに議論している。そういう自分も今日2度目の博多ではスリリングな乗り換えを予定していた。時刻表上で乗り換えの扱いがしてあると見えれば、多少の遅れなら考慮してくれるはずだ。今から悩んでも仕方ない。と割り切って車内販売で弁当を買って昼飯にする。ソニック弁当とおかしな名前がついていたが、どこも駅弁の質は高く外れは少ないように思っていた。一旦走りだしたらガンガン飛ばして回復運転を努めているようだが、上下交換があるとそこで足止めをくらい、再び走りだしたらすっ飛ばすということを繰返していた。やはり地理がいまいち分からないので何とも言えないが、かかった時間を考えると大分県も大きく感じた。やがて行橋にたどり着き、以前通ったことを思い出した。そのときは高架化が未完であったが、今はすべて完成しているようだ。列車の遅れは4、5分程度と見込まれたが、この辺は慢性的にダイヤの遅れが発生するということは後で知った。小倉で進行方向を変え博多までもうひとっ走りのところまでやってきた。
博多での乗り換え時間はもともと7、8分程度だったので5分も遅れていればダッシュしなければならない。乗り換え時間は僅かなので急げと車内アナウンスもあおっている。間に合わないことはないと思うが、こういう乗り換えは落ち着かないものだ。ということで走って長崎行きの特急に乗り込んだ。ハイパーサルーンと愛称がついた車両はJR九州によくあるパターンというか、車両の中心で部屋の空間が二分されている。座席はかなり埋まっていたが運良く海側の窓際席を確保することができた。その後となりの席に初老のご婦人が座り諫早まで行くことなどちょっとだけ話をした。車内販売で弁当と缶入りのお茶を買っていたが、表示価格+αで売っていたらしくさかんに首をひねっていた。これじゃいくら計算しても結果が合わなくて当たり前のように思うが、そんな売り方をしてもいいのだろうか?缶のフタを開けにくそうにしていたのでちょっとお手伝いしてあげたが、しばらくして前の席が空いたのでそちらに移っていった。今日2度目の鹿児島本線に鳥栖で別れを告げ長崎方面へ入っていく。平たい地形がしばらく続きやがて有明湾沿いに出てきた。海沿いを走る区間がかなりの距離で続き、海の入り組み具合にしたがって路線が敷いてあるようで左右カーブを繰返していた。遠くには普賢岳も垣間見ることができた。終点の長崎へは直行せず諫早で普通列車を待つことにしている。ここから旧線経由で長崎へ出て、逆にもう一方で戻ってくる。組合せが何通りか考えられたが、この順番に落ち着いた。諫早では大村線からの普通列車を待つことになるが、入線してから発車するまでしばらく待たされた。車両の中は改造がかかっているようで、シートピッチと窓の間隔が合っていない。少々薄暗い感じがした。トンネルをひとつ抜けると2方向へ分かれるがこちらは北側のルートへ入っていく。最初は単調な感じがしたが、やがて大村湾が見えるところに出てきた。これは眺めがとてもよい。しばらくして山岳地帯に入込み途中スイッチバックも行われた。長崎の地形は変化に富んでいることがよく分かる。高いところから下りてきて新線と合流し浦上駅で途中下車してみた。JRでいうと1区間にあたるが、浦上駅前から長崎駅近くまで路面電車を利用してみる。なかなか雰囲気があっていい。長崎見物をしているとゆうに1日は必要と思うが今回は素通りとした。ここはまたいつか来よう!と心に誓う。(後日談:その後、あらためて長崎見物をする機会がありました。そのときの旅日誌はこちらとこちらをご覧ください。)
ここから今日は佐世保まで移動することにしてある。直行する快速がちょうどいいタイミングであるのでそれを利用する。そのためにもこちらへ入るときは旧線まわりをおさえておいた。だんだん日が傾きかけているが、ちょうど東京行きの夜行列車が出るところだった。快速列車は結構長く連なっていた。乗り合わせたのは先程の車両と同じようなタイプのもので、やっぱり車内は暗い感じがする。浦上を出て長いトンネルに入ると、途中に待避線がありそこでしばらく待たされることになった。まさかこんなところで10分以上待つとは思いもよらなかった。ここでも長崎の地形の厳しさを知る。いい加減待たされてようやく諫早までやってきた。こちら経由でどれくらい時間が短縮されるものなのか、まったく実感することなく終わってしまった。
大村線に入りしばらくするとまた大村湾が見えてきた。かなり水際を走るところもあるようだったが、ここも眺めが素晴らしい。何もかも忘れられる景色というものがあるが、ここもそのひとつになりそうだ。快速運転で快調にやってきたが、ハウステンボスのあたりから上下交換待ちを含め、抑止をくらうことが多くなった。もう夕闇が迫ってきている。早岐まで来れば佐世保はすぐ先なのだが、路線容量が足りないせいかここでも何分か待つことになった。ようやく佐世保に着きアーケードの商店街をしばらく散策する。あまりにも分かりやすいが、今日の夜はちゃんぽんにしようと決めていた。
久留米までは鹿児島本線上を行くのでスピードは全然出せない。土曜日とはいえ、朝の過密ダイヤの中で頭を抑えれてしまっているのだろう。本当はリゾート特急ゆふいんの森の方に乗りたかったのだが時間が合わないので仕方ない、諦めてこちらの特急にしていた。博多を出たときはガラガラであったが、久留米を出たころには座席が埋まっていた。久大線に入り走りっぷりがちょっと変わる。耳納連山の尾根の急斜面が間近に見えてくる。晴れ渡っていればもっと綺麗に見えたかもしれない。前の座席の男4人組は盛んに何やら盛り上がっているが、話の内容からしてこの春大学を卒業したようだった。まぁいい、頑張ってくれ。(謎) しばらく川沿いが続き、由布を過ぎたあたりでぐるっと回り込んだ感じがした。徐々に下ってきて大分まで出てきた。この列車は別府行きだが次に乗り換えるのが大分始発なのでここで降りることにする。(後日談:その後、ゆふいんの森に乗る機会がありましたが、旅日誌はこちらをご覧ください。)
宮崎同様、大分もただ通り過ぎるだけになってしまった。何かのついでに来ることがあるかどうか分からないが、とりえあず今日は素通りということにする。ここからソニックに乗って再び博多を目指す。何の目的もなくただ乗りつぶすだけにぐるっとまわることになる。ソニックは言わずとも知れたJR九州の看板列車のひとつだが、外観、内装ともにユニークだと聞いていたのでまずは実際に乗ってみなければならない。中に入ってみて、なるほどと思ったが派手な配色にミッキーマウスのようなデザインの座席、確かに斬新ではある。日本にもこんな演出ができるセンスがあったのかと思うが、実際だれがデザインしたかなど知ってるはずがない。適当に座席を確保し中をうろうろしてみたが、ところどころのパーツにもこだわりがあるように感じた。昨日も通った別府までの区間をやはり振り子を効かせて走り抜いていく。昨日ほどスピード感はなかったが、足回りは軽やかだ。先程までお世話になった車を横目に見ながら別府を出発した。ここから先を乗り通せば日豊本線も全て完乗となる。その筋ではとても有名な宗太郎を通過するころから雨が強くなり、下りに遅れも出てるというアナウンスがあった。斜め前の2人組みは時刻表片手に乗り継ぎがどうのこうのと盛んに議論している。そういう自分も今日2度目の博多ではスリリングな乗り換えを予定していた。時刻表上で乗り換えの扱いがしてあると見えれば、多少の遅れなら考慮してくれるはずだ。今から悩んでも仕方ない。と割り切って車内販売で弁当を買って昼飯にする。ソニック弁当とおかしな名前がついていたが、どこも駅弁の質は高く外れは少ないように思っていた。一旦走りだしたらガンガン飛ばして回復運転を努めているようだが、上下交換があるとそこで足止めをくらい、再び走りだしたらすっ飛ばすということを繰返していた。やはり地理がいまいち分からないので何とも言えないが、かかった時間を考えると大分県も大きく感じた。やがて行橋にたどり着き、以前通ったことを思い出した。そのときは高架化が未完であったが、今はすべて完成しているようだ。列車の遅れは4、5分程度と見込まれたが、この辺は慢性的にダイヤの遅れが発生するということは後で知った。小倉で進行方向を変え博多までもうひとっ走りのところまでやってきた。
博多での乗り換え時間はもともと7、8分程度だったので5分も遅れていればダッシュしなければならない。乗り換え時間は僅かなので急げと車内アナウンスもあおっている。間に合わないことはないと思うが、こういう乗り換えは落ち着かないものだ。ということで走って長崎行きの特急に乗り込んだ。ハイパーサルーンと愛称がついた車両はJR九州によくあるパターンというか、車両の中心で部屋の空間が二分されている。座席はかなり埋まっていたが運良く海側の窓際席を確保することができた。その後となりの席に初老のご婦人が座り諫早まで行くことなどちょっとだけ話をした。車内販売で弁当と缶入りのお茶を買っていたが、表示価格+αで売っていたらしくさかんに首をひねっていた。これじゃいくら計算しても結果が合わなくて当たり前のように思うが、そんな売り方をしてもいいのだろうか?缶のフタを開けにくそうにしていたのでちょっとお手伝いしてあげたが、しばらくして前の席が空いたのでそちらに移っていった。今日2度目の鹿児島本線に鳥栖で別れを告げ長崎方面へ入っていく。平たい地形がしばらく続きやがて有明湾沿いに出てきた。海沿いを走る区間がかなりの距離で続き、海の入り組み具合にしたがって路線が敷いてあるようで左右カーブを繰返していた。遠くには普賢岳も垣間見ることができた。終点の長崎へは直行せず諫早で普通列車を待つことにしている。ここから旧線経由で長崎へ出て、逆にもう一方で戻ってくる。組合せが何通りか考えられたが、この順番に落ち着いた。諫早では大村線からの普通列車を待つことになるが、入線してから発車するまでしばらく待たされた。車両の中は改造がかかっているようで、シートピッチと窓の間隔が合っていない。少々薄暗い感じがした。トンネルをひとつ抜けると2方向へ分かれるがこちらは北側のルートへ入っていく。最初は単調な感じがしたが、やがて大村湾が見えるところに出てきた。これは眺めがとてもよい。しばらくして山岳地帯に入込み途中スイッチバックも行われた。長崎の地形は変化に富んでいることがよく分かる。高いところから下りてきて新線と合流し浦上駅で途中下車してみた。JRでいうと1区間にあたるが、浦上駅前から長崎駅近くまで路面電車を利用してみる。なかなか雰囲気があっていい。長崎見物をしているとゆうに1日は必要と思うが今回は素通りとした。ここはまたいつか来よう!と心に誓う。(後日談:その後、あらためて長崎見物をする機会がありました。そのときの旅日誌はこちらとこちらをご覧ください。)
ここから今日は佐世保まで移動することにしてある。直行する快速がちょうどいいタイミングであるのでそれを利用する。そのためにもこちらへ入るときは旧線まわりをおさえておいた。だんだん日が傾きかけているが、ちょうど東京行きの夜行列車が出るところだった。快速列車は結構長く連なっていた。乗り合わせたのは先程の車両と同じようなタイプのもので、やっぱり車内は暗い感じがする。浦上を出て長いトンネルに入ると、途中に待避線がありそこでしばらく待たされることになった。まさかこんなところで10分以上待つとは思いもよらなかった。ここでも長崎の地形の厳しさを知る。いい加減待たされてようやく諫早までやってきた。こちら経由でどれくらい時間が短縮されるものなのか、まったく実感することなく終わってしまった。
大村線に入りしばらくするとまた大村湾が見えてきた。かなり水際を走るところもあるようだったが、ここも眺めが素晴らしい。何もかも忘れられる景色というものがあるが、ここもそのひとつになりそうだ。快速運転で快調にやってきたが、ハウステンボスのあたりから上下交換待ちを含め、抑止をくらうことが多くなった。もう夕闇が迫ってきている。早岐まで来れば佐世保はすぐ先なのだが、路線容量が足りないせいかここでも何分か待つことになった。ようやく佐世保に着きアーケードの商店街をしばらく散策する。あまりにも分かりやすいが、今日の夜はちゃんぽんにしようと決めていた。
5日目
昨日までは広く広く移動することが多かったが、今日はこまめにまわることにしている。佐世保始発の特急は早岐で運転方向が変わるので座席は後ろ向きのままだった。肥前山口まで行き、まずは佐世保線を完乗にする。肥前山口から再び有田まで引き返してくるが、ちょうどハウステンボスに向かう人で車内は混雑していた。有田付近は窯元と思われる建物がいっぱい並んでいた。ここから松浦鉄道に乗り換え、伊万里へショートカットする。松浦鉄道は佐世保方面も同じ西九州線と名前がついているが、実際には伊万里で運行形態が切れている。伊万里駅では筑肥線に乗り換えるために一旦改札の外にでなければならない。駅構内のレイアウトは無理に真っ二つに分けた感じがするが、転換前はひとつの線路でまっすぐつながっていたのであろう。筑肥線への乗り換え時間はわずかで、1両編成の黄色いキハの座席は大半が埋まっていた。1ボックスだけ空きがあってそこに座った。更に発車間際にもう少し乗ってきて、最後は立っている人もいた。正面のおばさんが何やらつぶやいている。網棚に荷物上げるとすぐ忘れちゃうのよね…といった感じで花束のようなものを載せていた。この列車で西唐津まで行くことができ、タイミングもよく乗りつぶしには都合がよかった。無事乗り換えてホッとしたわけではないが、単調な景色が続いたためうとうとして途中意識を失いかけていた。気がつけば佐賀線と合流してさらに高架になって地下鉄から直通してくる線とも合流した。唐津駅は最近建て直された駅のようだがほとんどの人が降りてしまい、ほんの2、3人だけが西唐津へ行くために残っていた。すぐには出ないようで、ちょっと待たされた。正面に座ったおばさんは、ほら、やっぱり忘れちまった…などとぶつぶつ言いながら、網棚に上げてあった花を取りに戻ってきていた。やがて唐津を出発し高架を下り、車庫のついでに駅舎があるようなところが西唐津駅だった。この先の路線は廃止されてしまったが、なぜこの1区間だけ残っているのかよくは分からない。
ここでしばらく時間を潰し、佐賀線の列車を待つことになる。これまであれこれ食べ過ぎてきたせいか、何か今朝からお腹の具合がしっくりしない感じがしていたので、昼飯は抜いてみることにしていた。とはいえ水分は補給したいので、駅前へ出て自販機で飲み物を買うことにした。ぽつんと残された感じのする駅は人の姿もまばらだったが、どうしたものか売店だけは営業していた。そこで、店先に並んだお菓子のようなものをまじまじと見てる人がいたが、やがて3つ4つ手に取り購入していた。再び戻ってきて、不安そうな表情で賞味期限が切れてるとたずねている。お店の人も不慣れな感じで確認していたが、やがてそれが製造年月日だったことが分かり一件落着となる。地下鉄からの直通電車と入れ替わりに佐賀行きのキハが車庫から出庫してきた。黄色の塗装ではなく、白地に青ラインの車の2両編成だ。何もすることがないのでとりあえず車内で待つことにする。ようやく出発となったが、唐津の駅でも時間調整で何分か停車していた。2両編成ではあったがワンマン運転なので出入り口は先頭1ヶ所となる。そのため2両目はドアが開かないことが多い。それでも駅で降りる人はみな駅に到着してから腰を上げるようで、世代に関係なくいわゆる都会の方とタイミングが違う。慌しさになれてしまっているせいだろうか、ちょっと違和感を覚える。決して加速のよくないキハはのんびりしたまま南下していき、やがて佐賀へ着いた。あまり乗り換え時間はなかったが、一旦ラチ外へ出てみた。この駅も高架に建て直されたのだろう。1階はお土産屋さんのような店舗が入っていたが、何となく閑散としている。再びホームに上がり次の列車を待つ。佐世保とハウステンボスからの併結の特急だったが、乗り込んだのはハウステンボスからの車両だった。ワンポイントの模様が入ったシートがいくつか配置されている。長崎に向かうときには気がつかなかったが、車窓から吉野ヶ里遺跡という看板が見えた。恥ずかしながら、吉野ヶ里というところが佐賀県に存在していたことを初めて知った。鳥栖で再び鹿児島本線に入り、とりあえず博多まで乗り通す。(後日談:その後、唐津と吉野ヶ里をあらためて訪問する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
博多駅で早足の乗り換えをする。実は、山陽新幹線の広島以西が未乗だったので帰りにでもと考えていた。でもって日程を組んでみたら帰りには朝一ののぞみを利用する案が浮かんできて、朝早すぎるのも…と思ってそれには小倉から乗ることにしてこの1区間を無理に別の日に押し込んでみた。ただそうすることにより今日のアクロバットなスケジュールが成り立ったので、いつものように結果オーライで丸くおさめる。ということで、在来線から新幹線へ急いでいた。切符も初日に調達していたのでその手間も心配ない。新幹線ホームに上がると、既に短編成のこだまが既に入っていた。普段見慣れないせいか、丸鼻の短編成の新幹線は何か妙な感じもする。コンクリートの落下事故があったり何かとお騒がせなところであったが、トンネルばかりの1区間はあっという間に通りすぎてしまった。
小倉での乗り換えは博多以上に慌しいものだった。滑り込みセーフという程でもないが、ちょっとでも遅れが出たらどうだったか分からない。折角見つけた筋だったのでまずは間に合ってよかった。日田彦山線への直通列車ではなかったので城野で乗り換えなければならない。ほぼすべてのボックスが埋まっていたので、適当なところへ腰掛けた。そういえば2駅くらい乗ったことがあったが、今日もまだ先の方は未乗で残ってしまう。そこは次の機会にすることにして、まだ他にも条件が厳しいところがあったのでそちらを優先することにした。緩やかな勾配の山が続く。ボタ山の風景とはこういうものなのだろうか?田川後藤寺にはやや遅れて到着していたため、後藤寺線に向けてここでもダッシュするハメになった。同じ筋で行動する人たちが結構いるようで、他人同士がなぜか集団で走っていた。(笑)
かつてこのあたりは炭鉱関連の路線が縦横無尽に走っていたが、いまではほとんどが廃止されてしまっている。だが、後藤寺線を含めいくつかはその名残のような感じで残っている。採石場があったり先程までと同じような風景がここでも続く。短い路線ではあったが、途中上下交換してすぐに終点に着いてしまった。新飯塚から桂川へ移動し、今日もっともスケジュールを組むのが難しかった筑豊本線の枝線を待つことにする。戸籍上は筑豊本線ということになっているが、桂川から原田までは完全に運行形態が切れており極端に本数が少ない。それも朝夕に偏って運行されているため、この筋を見つけたときは小躍りするようだった。同じ行動をとった集団が黄色いキハ単行を陣取った。途中の停車駅でも乗り降りはまったくなく地元客は乗っていなかったようだ。駅自体も朽ち果てそうな印象さえ受けるところもある。車内はどんよりとした空気が漂い、走り疲れたわけではないと思うが、ほとんどすべての人が眠りについていた。長いトンネルを抜け下った感じが終わると終点原田に到着した。ここまで行動をともにした集団は解散のような形になった。この旅何度目の鹿児島本線か分からないが、普通列車と特急を乗り継ぎ再び博多まで戻ってきた。
日は西に傾き徐々に夕暮れが迫ってくる。長かった九州乗り倒しも終わりが見えてきたが、最後にもう1ヶ所だけ片付けることにしてある。博多で赤い特急に乗り換え、折尾から若松方面へ向かう。通学帰りの学生を中心に大勢の人の流れができていた。若松行きも既に入線しており発車時刻を待っている。アイドリングのエンジン音が気になるキハは定刻どおり若松に向けて出発した。寄り添う道路を車はバンバン走り抜け、反対側は工業地帯が広がっている。終点若松の構内はとても広かったが何か物寂しい雰囲気がした。ここからバスにでも乗れば小倉は近いようであったが、余韻に浸るような感じで来た道を戻る。すっかり日は暮れていた。
次の列車でいよいよ九州最後になる。旅が終わりに近づくときのあの物悲しさがじわじわとやってきた。駅下の通りを行き交う車の流れを眺めながら、柄にもなく感傷的になってる自分がいた。そうなる理由には今回は久々の長旅だったこともあるが、ここ数ヶ月間仕事絡みでいろいろ考えさせられたことの方が大きい。もしここで仮に1ヶ月の休暇を取っていたら、世捨て人のようになっていたかもしれない。(苦笑) 最後の列車になる赤い特急に乗り込み、あらためて検印でいっぱいになった切符を見てみた。スペースワールドが綺麗にライトアップされていた。
ここでしばらく時間を潰し、佐賀線の列車を待つことになる。これまであれこれ食べ過ぎてきたせいか、何か今朝からお腹の具合がしっくりしない感じがしていたので、昼飯は抜いてみることにしていた。とはいえ水分は補給したいので、駅前へ出て自販機で飲み物を買うことにした。ぽつんと残された感じのする駅は人の姿もまばらだったが、どうしたものか売店だけは営業していた。そこで、店先に並んだお菓子のようなものをまじまじと見てる人がいたが、やがて3つ4つ手に取り購入していた。再び戻ってきて、不安そうな表情で賞味期限が切れてるとたずねている。お店の人も不慣れな感じで確認していたが、やがてそれが製造年月日だったことが分かり一件落着となる。地下鉄からの直通電車と入れ替わりに佐賀行きのキハが車庫から出庫してきた。黄色の塗装ではなく、白地に青ラインの車の2両編成だ。何もすることがないのでとりあえず車内で待つことにする。ようやく出発となったが、唐津の駅でも時間調整で何分か停車していた。2両編成ではあったがワンマン運転なので出入り口は先頭1ヶ所となる。そのため2両目はドアが開かないことが多い。それでも駅で降りる人はみな駅に到着してから腰を上げるようで、世代に関係なくいわゆる都会の方とタイミングが違う。慌しさになれてしまっているせいだろうか、ちょっと違和感を覚える。決して加速のよくないキハはのんびりしたまま南下していき、やがて佐賀へ着いた。あまり乗り換え時間はなかったが、一旦ラチ外へ出てみた。この駅も高架に建て直されたのだろう。1階はお土産屋さんのような店舗が入っていたが、何となく閑散としている。再びホームに上がり次の列車を待つ。佐世保とハウステンボスからの併結の特急だったが、乗り込んだのはハウステンボスからの車両だった。ワンポイントの模様が入ったシートがいくつか配置されている。長崎に向かうときには気がつかなかったが、車窓から吉野ヶ里遺跡という看板が見えた。恥ずかしながら、吉野ヶ里というところが佐賀県に存在していたことを初めて知った。鳥栖で再び鹿児島本線に入り、とりあえず博多まで乗り通す。(後日談:その後、唐津と吉野ヶ里をあらためて訪問する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
博多駅で早足の乗り換えをする。実は、山陽新幹線の広島以西が未乗だったので帰りにでもと考えていた。でもって日程を組んでみたら帰りには朝一ののぞみを利用する案が浮かんできて、朝早すぎるのも…と思ってそれには小倉から乗ることにしてこの1区間を無理に別の日に押し込んでみた。ただそうすることにより今日のアクロバットなスケジュールが成り立ったので、いつものように結果オーライで丸くおさめる。ということで、在来線から新幹線へ急いでいた。切符も初日に調達していたのでその手間も心配ない。新幹線ホームに上がると、既に短編成のこだまが既に入っていた。普段見慣れないせいか、丸鼻の短編成の新幹線は何か妙な感じもする。コンクリートの落下事故があったり何かとお騒がせなところであったが、トンネルばかりの1区間はあっという間に通りすぎてしまった。
小倉での乗り換えは博多以上に慌しいものだった。滑り込みセーフという程でもないが、ちょっとでも遅れが出たらどうだったか分からない。折角見つけた筋だったのでまずは間に合ってよかった。日田彦山線への直通列車ではなかったので城野で乗り換えなければならない。ほぼすべてのボックスが埋まっていたので、適当なところへ腰掛けた。そういえば2駅くらい乗ったことがあったが、今日もまだ先の方は未乗で残ってしまう。そこは次の機会にすることにして、まだ他にも条件が厳しいところがあったのでそちらを優先することにした。緩やかな勾配の山が続く。ボタ山の風景とはこういうものなのだろうか?田川後藤寺にはやや遅れて到着していたため、後藤寺線に向けてここでもダッシュするハメになった。同じ筋で行動する人たちが結構いるようで、他人同士がなぜか集団で走っていた。(笑)
かつてこのあたりは炭鉱関連の路線が縦横無尽に走っていたが、いまではほとんどが廃止されてしまっている。だが、後藤寺線を含めいくつかはその名残のような感じで残っている。採石場があったり先程までと同じような風景がここでも続く。短い路線ではあったが、途中上下交換してすぐに終点に着いてしまった。新飯塚から桂川へ移動し、今日もっともスケジュールを組むのが難しかった筑豊本線の枝線を待つことにする。戸籍上は筑豊本線ということになっているが、桂川から原田までは完全に運行形態が切れており極端に本数が少ない。それも朝夕に偏って運行されているため、この筋を見つけたときは小躍りするようだった。同じ行動をとった集団が黄色いキハ単行を陣取った。途中の停車駅でも乗り降りはまったくなく地元客は乗っていなかったようだ。駅自体も朽ち果てそうな印象さえ受けるところもある。車内はどんよりとした空気が漂い、走り疲れたわけではないと思うが、ほとんどすべての人が眠りについていた。長いトンネルを抜け下った感じが終わると終点原田に到着した。ここまで行動をともにした集団は解散のような形になった。この旅何度目の鹿児島本線か分からないが、普通列車と特急を乗り継ぎ再び博多まで戻ってきた。
日は西に傾き徐々に夕暮れが迫ってくる。長かった九州乗り倒しも終わりが見えてきたが、最後にもう1ヶ所だけ片付けることにしてある。博多で赤い特急に乗り換え、折尾から若松方面へ向かう。通学帰りの学生を中心に大勢の人の流れができていた。若松行きも既に入線しており発車時刻を待っている。アイドリングのエンジン音が気になるキハは定刻どおり若松に向けて出発した。寄り添う道路を車はバンバン走り抜け、反対側は工業地帯が広がっている。終点若松の構内はとても広かったが何か物寂しい雰囲気がした。ここからバスにでも乗れば小倉は近いようであったが、余韻に浸るような感じで来た道を戻る。すっかり日は暮れていた。
次の列車でいよいよ九州最後になる。旅が終わりに近づくときのあの物悲しさがじわじわとやってきた。駅下の通りを行き交う車の流れを眺めながら、柄にもなく感傷的になってる自分がいた。そうなる理由には今回は久々の長旅だったこともあるが、ここ数ヶ月間仕事絡みでいろいろ考えさせられたことの方が大きい。もしここで仮に1ヶ月の休暇を取っていたら、世捨て人のようになっていたかもしれない。(苦笑) 最後の列車になる赤い特急に乗り込み、あらためて検印でいっぱいになった切符を見てみた。スペースワールドが綺麗にライトアップされていた。
6日目
染み付いた貧乏性のせいかどうかわからないが、会社の出張でもなぜかのぞみにはほとんど乗らない。別に数百円なりをケチるわけではないが、今日は500系のぞみにぜひお世話になろうと思っている。ただ新幹線に乗りっぱなしというのもつまらないので1ヶ所だけ途中下車することにした。今朝は中途半端に小倉からスタートする。新幹線の改札はいうまでもなくJR九州ではなくJR西日本だ。途中寄り道することを決めていたのは錦川清流鉄道で、まずは広島まで移動する。広島から東京までは距離があるので500系のぞみに狙いをつけて指定を取っておいた。その手前は何でもよかったのだが、時間を適当に合わせるとこちらも500系のぞみになっていた。新関門トンネルを通り過ぎ本州に戻ってきたが、何か実感のようなものはない。開業したばかりの厚狭駅を通過しその先もトンネルが続き、やがて車内の電光掲示板で時速300キロに達したことを案内していた。200キロと300キロとがどう違うか体感で分かるわけはないが、揺れは少ない。あまりぼやぼやしているとそれこそ広島に着いてしまうので、朝飯を軽く済ませることにした。ノンストップでやってきたのぞみは何事もなかったように広島駅へ滑り込む。(後日談:その500系ですが、のぞみとしての役目を終え東海道区間から退くことになりました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
帰りの切符はここで一旦保留にして下りの在来線に乗り換える。トンネルだらけの新幹線とは違い、瀬戸内海をバックに朝日がまぶしかった。外は気温が低くなったみたいだが対照的に車内はポカポカと気持ちよく、流れる風景はまるで催眠術だった。岩国で降りるとより一層寒さを感じ一気に目が覚めた。錦川清流鉄道は三セクへの転換路線で起点は岩国ではないが、運行上は岩国折り返しである。既に1両入っていたので乗り込めないのか覗込む人もいたが、係員がやってきてもまだダメだという。よく分からないが、上りが到着して乗客を降ろししばらく様子をみていたら連結作業を始めた。そろそろ中に入れそうな感じがしてきたところで、うるさくはしゃいでいた小学生の集団が一気に車内へ雪崩込んだ。おかげで、そりゃもう大騒ぎ…ってな感じになってきた。これじゃぁ清流も何も台無しかと思ったらもう1両の方が開放され、うるさい集団はそちらにすべて移された。貸切団体ご一行様にはそちらで思う存分はしゃいでもらおう。岩徳線から分岐し錦川沿いに北上を始める。「これはガンニチ線ですか?」と聞いてまわってる人がいたが「いやぁ分かりませんが違うんじゃないですか?」といった答えしか返ってこない。そのうち慌てて降りていってしまった。錦川清流鉄道は日本一の清流沿いをうたい文句として紹介されることが多い。ただ日本一かどうかまでは車内からは確かめられなかった。やっぱり途中下車して実際に触れてみないと分からないのだろうが、今日は昨日までとうって変わって空も灰色がかって寒々していたので水面もくすんで見えた。途中1ヶ所だけ上下交換のためしばらく停車した。古びた看板に「乗って残そう、岩日線」と書いてある。んん、転換前は岩日線だったのか、、、じゃぁ、さっき降りちゃった人は正解だったわけか?!(後日談:岩国の"岩"と山口線の日原の"日"で"岩日線"だったんですね。もちろん日原まで開通することは夢として終わってしまいましたが。)まぁ、過ぎてしまったことは仕方ない。今日は一段と寒いと思ったら雪が舞いだした。後ろの車両の団体さんも錦町まで乗り通して先を目指すようだったが、雪を見てなお一層うるさくなった。
あまりにも寒いので売店のストーブで暖をとらせてもらうことにした。休日だけ設定された便で折り返すことにしていたが、途中御庄で新幹線の新岩国駅へ乗り継いでみることにした。時刻表をみると300メートの距離で乗り換え可などと書いてあることは昔から気にはなっていたが、2度目の来訪はまずないだろうと思い実際に行ってみたくなった。新幹線のホームの高架下にポツンと御庄駅はあった。もちろん無人駅で待合室のできそこないのようなものがあるにはある。新岩国駅の表口とは逆の端っこに位置しているといった感じで、高架に沿って歩道がそれとなくあった。とぼとぼとそこを歩いていくが、寒いしとても寂しい場所だった。ようやく新岩国駅へ出てこれた。まったくの途中下車なので広島までの乗車券を買い求める。オレンジカードが使えるとわざわざ張り紙までしてあったので手持ちのを消化にあてる。程なく次のこだまが四両編成でやってきた。座席はほぼ埋まっていたが、ちょうど空いたところがあったので座ることにする。少し前の方で家族の見送りの風景が見られた。再び新幹線で広島へ戻ってきた。1区間だけの切符を渡して一旦外へ出る。別に用はないが新幹線口とは逆の正面へまわってみると駅ビルの工事をしているようだ。そういえば、昔の広島駅の記憶はあまり残っていない。(後日談:その後、岩国を再訪する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
いよいよ本当に最後の列車になる。3連休だったこともあり、軒並み指定の売切れが目立った。余裕をもって指定を手に入れてあったので慌てる必要もないが、ひかりの自由席を待つ長い列がいくつかできており寒さに震えていた。再び500系のぞみのお世話になる。別に驚いたことではないが、アテンダントは女性ばかりでみな颯爽としている。車掌という表現より客室乗務員という言葉が似合う。やましい下心などないが、素直に格好いいなと思った。新大阪で乗務員が西日本から東海へバトンタッチされた。減速して分かったが、新大阪でも雪が舞っていた。しばらく雪の区間が続き京都駅から乗り込んだ人たちの表情をみても、とても寒いことが分かる。関が原を抜け名古屋に着く頃になって雪はおさまったようだが、日本全国で冷込んでいるようだった。名古屋では思いのほか大きく乗客の入替えがあり、最後東京を目指すころには天気はよくなっていた。九州にいるときは邪魔に感じた上着も今日はとてもありがたく思えてきた。
帰りの切符はここで一旦保留にして下りの在来線に乗り換える。トンネルだらけの新幹線とは違い、瀬戸内海をバックに朝日がまぶしかった。外は気温が低くなったみたいだが対照的に車内はポカポカと気持ちよく、流れる風景はまるで催眠術だった。岩国で降りるとより一層寒さを感じ一気に目が覚めた。錦川清流鉄道は三セクへの転換路線で起点は岩国ではないが、運行上は岩国折り返しである。既に1両入っていたので乗り込めないのか覗込む人もいたが、係員がやってきてもまだダメだという。よく分からないが、上りが到着して乗客を降ろししばらく様子をみていたら連結作業を始めた。そろそろ中に入れそうな感じがしてきたところで、うるさくはしゃいでいた小学生の集団が一気に車内へ雪崩込んだ。おかげで、そりゃもう大騒ぎ…ってな感じになってきた。これじゃぁ清流も何も台無しかと思ったらもう1両の方が開放され、うるさい集団はそちらにすべて移された。貸切団体ご一行様にはそちらで思う存分はしゃいでもらおう。岩徳線から分岐し錦川沿いに北上を始める。「これはガンニチ線ですか?」と聞いてまわってる人がいたが「いやぁ分かりませんが違うんじゃないですか?」といった答えしか返ってこない。そのうち慌てて降りていってしまった。錦川清流鉄道は日本一の清流沿いをうたい文句として紹介されることが多い。ただ日本一かどうかまでは車内からは確かめられなかった。やっぱり途中下車して実際に触れてみないと分からないのだろうが、今日は昨日までとうって変わって空も灰色がかって寒々していたので水面もくすんで見えた。途中1ヶ所だけ上下交換のためしばらく停車した。古びた看板に「乗って残そう、岩日線」と書いてある。んん、転換前は岩日線だったのか、、、じゃぁ、さっき降りちゃった人は正解だったわけか?!(後日談:岩国の"岩"と山口線の日原の"日"で"岩日線"だったんですね。もちろん日原まで開通することは夢として終わってしまいましたが。)まぁ、過ぎてしまったことは仕方ない。今日は一段と寒いと思ったら雪が舞いだした。後ろの車両の団体さんも錦町まで乗り通して先を目指すようだったが、雪を見てなお一層うるさくなった。
あまりにも寒いので売店のストーブで暖をとらせてもらうことにした。休日だけ設定された便で折り返すことにしていたが、途中御庄で新幹線の新岩国駅へ乗り継いでみることにした。時刻表をみると300メートの距離で乗り換え可などと書いてあることは昔から気にはなっていたが、2度目の来訪はまずないだろうと思い実際に行ってみたくなった。新幹線のホームの高架下にポツンと御庄駅はあった。もちろん無人駅で待合室のできそこないのようなものがあるにはある。新岩国駅の表口とは逆の端っこに位置しているといった感じで、高架に沿って歩道がそれとなくあった。とぼとぼとそこを歩いていくが、寒いしとても寂しい場所だった。ようやく新岩国駅へ出てこれた。まったくの途中下車なので広島までの乗車券を買い求める。オレンジカードが使えるとわざわざ張り紙までしてあったので手持ちのを消化にあてる。程なく次のこだまが四両編成でやってきた。座席はほぼ埋まっていたが、ちょうど空いたところがあったので座ることにする。少し前の方で家族の見送りの風景が見られた。再び新幹線で広島へ戻ってきた。1区間だけの切符を渡して一旦外へ出る。別に用はないが新幹線口とは逆の正面へまわってみると駅ビルの工事をしているようだ。そういえば、昔の広島駅の記憶はあまり残っていない。(後日談:その後、岩国を再訪する機会がありました。そのときの旅日誌はこちらをご覧ください。)
いよいよ本当に最後の列車になる。3連休だったこともあり、軒並み指定の売切れが目立った。余裕をもって指定を手に入れてあったので慌てる必要もないが、ひかりの自由席を待つ長い列がいくつかできており寒さに震えていた。再び500系のぞみのお世話になる。別に驚いたことではないが、アテンダントは女性ばかりでみな颯爽としている。車掌という表現より客室乗務員という言葉が似合う。やましい下心などないが、素直に格好いいなと思った。新大阪で乗務員が西日本から東海へバトンタッチされた。減速して分かったが、新大阪でも雪が舞っていた。しばらく雪の区間が続き京都駅から乗り込んだ人たちの表情をみても、とても寒いことが分かる。関が原を抜け名古屋に着く頃になって雪はおさまったようだが、日本全国で冷込んでいるようだった。名古屋では思いのほか大きく乗客の入替えがあり、最後東京を目指すころには天気はよくなっていた。九州にいるときは邪魔に感じた上着も今日はとてもありがたく思えてきた。