■旅日誌
[2006/3] おもひでぽろぽろ~さよなら、出雲
(記:2006/3/12 改:2023/11/19)
(記:2006/3/12 改:2023/11/19)
衝動買いという言葉がありますが、単なる勢いで出雲号の"さよなら乗車"をすることにしました。切羽詰って大騒ぎする奴の気が知れない…などと人ごとのように言ってましたが、何のことはない自分も"そのまんま"です。そんな戯言はさておき、残念ながらまた夜行列車の灯が消えることになりました。寂しい限りです。
※下線部をクリックすると写真が表示されます
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1日目
出雲の廃止の知らせを聞いたときは、不謹慎ながらやっぱりな…という気になってしまった。サンライズ出雲はそこそこ利用者がいると聞くが、それに加えて出雲号も必要か?という議論になると、正直なところ厳しいものがある。特に最近の利用率の落ち込みはかなりなものらしい。それにしても軒並みやってくる寝台列車の縮小には目を覆いたくなる状況である。そんな折、長崎遠征からちょうど1ヶ月、今回は本当に予想もしてなかった行動に打って出てしまった。大騒ぎしてる中わざわざ出向くのも何だし、とはいうもののダメ元で週末の予約状況を検索かけてみるとわずかばかりだが残席を示す△印が出ており、それをきっかけに枠の確保に動いてしまう。下段希望は叶わなかったものの、とりあえず喫煙車でないことだけは十分に確認しておく。もちろんシングルDXを叩いてもらうものの、空いてるわけもなかった。(後日談:サンライズ出雲に乗った時の旅日誌はこちらとこちらをご覧ください。)
前日にちょっとした問題があって冷や汗ものだったが、どうにかそれも片付いて土曜日は早めに仕事を切り上げることができた。急転直下の行動に、今回は出先からの出発となる。当日の夕方になって近くの駅へ向かい乗車券を買うことから始める。冷やかしでシングルDXを照会してみるものの、やっぱり満席だった。押し迫った週末、B寝台も売り切れる勢いなので無理もない。もしやと思って下段がないか確認してもらったところ、若干空きが出ているとのことなので変更をかける。おっと忘れちゃいけない、もうひとつ、えきねっとで取った指定券の受け取りもしておかなければならない。
あまり馴染みのない駅で様子が分からなかったが、駅近くで食料と飲み物を調達しておく。途中、ドラマのロケをやっていて、本番撮影後モニターチェックに戻ったタレントさんは、、、すらっとした色白・子顔のこの女性はもしかして理事長役のI・Wさんかい??グラビア系のぽっちゃりしたイメージが強かったが意外とかぼそく、やはりタレントさんは何か違うオーラを発しているものだ。その後も本屋など立ち寄ったりしたが、やや早いが東京駅へ行ってしまおう。雑踏の中、朝の通勤電車以外でこれほど人が多いところにいるのも何だか久しぶりな気がする。今回のこの行動だが、実はもうひとつきっかけがあった。古い知り合いから便りをもらっていて、この日出雲に乗るということを聞いており、自分でも「こんな生活じゃなければ出雲のさよなら乗車でもしておきたいが」と諦めが先に来てしまっていたが、あの便りに背中を押された形にあった。まぁ、カレンダーを見ながらどうしてもというならこの日かな?などと理性(?)を押さえ切れずにいたのは正直あるのだが…。(笑)
なんとなくいい時間になって、出雲の入線を待つ。東京駅の10番ホームは去年のあさかぜ以来だが、まるでデジャビュのようである。例の知り合いにも、今日のことは告げてなかったのでびっくりさせてあげようと企む。ホームを1、2度往復し姿を探すと、、、おぉ、いたいた。こうしてお会いするのは何年ぶりだろうか、キョトンとした表情の相手に一方的に事情を説明していると間もなく入線のアナウンスが入った。たまたま横にいた年配の方から声を掛けられたので今日の騒ぎの理由を説明すると、実は何も知らなかったと話していた。妙な喧騒をよそに、少なからずも真のニーズがあることをあらためて思う。
銀河を引く電機機関車とのプッシュ・プルで出雲は入線してきた。ヘッドマークをつけた機関車はホームを外れているので正面を見ることはできない。行き先を示すサボは古い国鉄タイプのもので、黒地に白抜きのJR西日本のものとは違い、尾久所属の「正統派」と呼ばれる部類の車両である。時間があまりないので慌しいが最後尾をちらっとみて席に戻ることにした。それにしても物見の人でごった返している。明朝になるか京都の停車になるか分からないが、知り合いとは一旦ここで別れることにした。食堂車へ行って積もる話しでも…とも思ったが、あまりにも混雑してそれどころではなかったのでその提案はやめておくことにした。
変更後の番号は偶数番=進行方向の寝台だった。あらためて流れ行く外の景色を眺める。出発してしばらくしても向かいの上下は誰も来る気配がない。今日はきっちり満席なので、きっと途中で乗ってくるのだろう。上段の方は通路のイスを引き出して静かにたたずんでる様子だったので、無理に話しかけることはしないでおこう。思い返せば今週は特にきつく、ことさら昨日はどうなるものか先が見えなかったが、こうして席につけただけでもありがたいと思わなければならない。意識的に携帯を切って、このまましばらくぼーっとした時間を過ごすことにした。
横浜を出たところで遅い夕食に取り掛かる。西の空には細長く欠けた月が沈んでいこうとしているのが見える。ここらから大きな工場が目立ってくるのだが、昨今の情勢からか再開発された街並みや大きなマンションが目を引く。時代は流れていくものであり、こんなブルートレインも姿を消してていくのはある意味仕方のないことなのだろう。それでも惜しいものは惜しい。並行する貨物線には貨物列車が自分のペースで走っていた。こちらは普通列車の合間を縫ってのダイヤなのであまりペースは上がらない。なので抜かれたり、抜き返したりを2度、3度繰り返していた。小田原付近で回送の新幹線を見たところで、熱海の手前で案内放送が休止されることがアナウンスされた。時間にして随分と早い気もするが、疲労困ぱい状態なので横になろうと思う。上段の方も席をたたみ何となく片付けに入った様子なので、座席としてあけておいたつもりのスペースも寝台にセットしまっていいだろう。
2日目
熱海を過ぎても向かいの人は乗ってこなかった。ゆっすらゆっすらと心地よい揺れが続くと思えば、時折ガクンとくる振動に意識が引き戻される。しばらくしてどうやら2人組みで乗ってこられたようだが、むくむくっと時計を眺めると浜松に停車している時間だった。室内は乾燥しているようでノドを潤してもう一度寝に入る。次に意識が戻ったら3時過ぎだったので、身支度して機関車の付け替えの様子を見にいくことにした。と、廊下には既に人の列が…。2号車なのでこれから降りて様子を見に行こうという人の列であった。京都には定刻での到着となり、真夜中だというのに一斉にダッシュである。ここまで東海道線を引っ張ってきた電気機関車が外され、替わってディーゼル機関車が付けられる。赤い「出雲」のヘッドマークはひときわ異彩を放っている。写真を撮る人でもみくちゃにされたので、その場はさっと引き上げるようにした。8分の停車時間の後、出雲は山陰線へと入っていく。梅小路機関区、二条駅を確認したところで、再び寝に入ることにした。トンネルが続く新線区間を抜けると線形は変わり、カタコトカタコトと今までと違ったリズムを刻んでいく。山陰線といえば、大昔高校生のときに友人と乗り通したことが今でも忘れられずにいる。そう、以前の旅日誌でも触れたと思うが、鈍行夜行の"山陰号"で過ごしたときのことだ。この寝台の中で一人じっとしていると、嫌でもあれこれ思いが巡ってくる。果たしていまのこの荒んだ生活振りに何の意味があるのだろうか?過労死しても不思議じゃないくらいの忙しいのはいったい何のため??気のせいか、機関車の放つ甲高い警笛音は本当に悲しげだった。この出雲号も廃止されれば、またひとつ時代が終わってしまうような気がした。
何のことはない、4時頃寝て7時前に起きるというのは普段の生活のペースのままだ。その前に何時間か横になっていたので、気分は思いのほかすっきりしている。洗面台が混雑する前に、さっさと支度を済ませておこう。香住の手前で案内放送が再開される。列車は定刻で走っていた。今週はまとまった雪が降ったこともあり、沿線はどこも雪が残っていた。勝手な言い方だが、何となく懐かしさを感じさせる風景に残雪が妙にマッチしていた。香住で上りのはまかぜと交換し、7時過ぎには山場である餘部鉄橋を通過する。あの有名な撮影ポイント=お立ち台には本当に物凄い数の人がこちらにファインダーを向けていた。この先も沿線にはぽつりぽつりと写真を撮る人の姿が目に入った。餘部を通過したので、朝食を調達するために食堂車へ弁当を買いに行くことにしよう。この様子だと相当混雑するだろうから、先回りして要領よく済ませたい。既に多くの人が陣取っていたが、浜坂で販売員の方がいくつもの段ボールを積み込んできた。食堂車の一角を空けてもらい弁当の販売を始める。予想通り長蛇の列となったが、運よく前の方に並べたのですぐに購入してその場を立ち去る。普段は鳥取までの販売なのだが、今日は倉吉まで延長すると言っていた。その前に弁当は売り切れてしまうそうだが…。今日はこちらの名物であるカニ寿司のほかに、特製幕の内が準備されていた。特製といっても中身が凄いかというそうでもない。表の包み紙に『さよなら出雲号』という文字と写真がいくつか載っている。見事な写真なので、記念にこれは持って帰ることにしよう。ちなみに中身の話をしてしまうと、決して質が悪いとか、批判するつもりはない。詰め合わされた具材はきちんとしていて、しっかりと手が掛かっている。味も悪くないし、お茶がセットで1000円なら妥当な線だと思う。
出雲号は時折長時間停車があり、ホームでは列車を撮影する面々が右往左往していた。米子駅では後ろ3両が切り落とされるため20分近い停車となる。駅側も過剰な騒ぎを懸念してロープを巡らして事前に防衛線を張っていた。時間があるので、思い切って駅の外に出てみると、何となく全景が見られそうな場所があったので記念にワンショット撮っておく。先を譲ったやくもが発車していくのが見えたので、慌てて列車に戻る。今日は天気もよく、空は晴れ渡っていた。その後も日本海や中海、宍道湖がきれいに見てとることができた。長距離列車らしく、米子市内や大山、中海、宍道湖などの案内が放送されていた。
松江を出て宍道湖が見えてくるといよいよ終着が近づいてきたことになる。サンライズ出雲とあわせて東京-山陰間は2往復の夜行が走っているが、あちらは東京を1時間遅れて出発したにもかかわらず先に到着している。出雲がなくなると鳥取県を通る東京との直通列車がなくなり、それが今回の廃止で問題視されたが、救済処置を講ずるとか何となくなし崩し的に話が決まったようにも思える。実質運行主体のJR西日本としても、車両のオーナであるJR東日本に維持メンテを頼らざるを得ないこと、餘部鉄橋の架け替え問題など、自己解決できない事情を抱えており、その言い分も分からないでもない。今日のお別れ乗車も名残惜しいところであっけなく終わりとなってしまった。
出雲市駅で最後にこの雄姿を記憶にとどめておく。10分もしたら回送されてしまうので、みな必死になって走りまわって撮影している様子だった。最後に後姿を見送り、一旦改札を出ることにした。例の知り合いの方とも、ここでお別れである。もっといろんな話をしたかったが、それはそれで次の楽しみとしておきたい。メールすることを約束してお互いの目的地へ向かうことにした。(Mさん、本当にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。)
今回は本当に計画を練るヒマもなかったので、何もネタを用意していない。ありきたりだが…なんて言い方をすると失礼にあたるかもしれないが、出雲大社にでも向かうことにした。思えばこれも高校生のときに友人と山陰号に乗ったとき以来だ。余談になるが、なぜ高校生が男2人でそんなところに行ったかというと、確か友人の知り合いが近くに住んでいたので、挨拶かねがね体を流しにお邪魔したような気がする。そんな思い出が今でもむくむくっとよみがえるのは、心の奥底に刻み込まれた何かがそうさせているのだろうか。(後日談:その後、出雲大社を再訪したときの旅日誌は、こちらをご覧ください。)
出雲大社へは行きと帰りとでルートを変えてみることにした。往路はバスで向かうことにしよう。きれいに整地された駅前を抜け、30分程して出雲大社へ到着した。いまさら縁結びも何もあったもんじゃないが、とりあえず日本の神様が集まる場所だと思うのでお参りを済ませておいてもバチはあたらないだろう。そもそも、その理解も怪しいものだが…。本殿前で周囲にならって二礼四拍手一礼のお参りをする。このならわしの由来もよく分かっていないが、まぁいいとしよう。折角なので一通り敷地の中をみてまわる。単に立派なだけでなく、このたたずまいはやはり何かがここにいるような気がしてならない。裏手の方にまわってみるとあまり人も入って来ず、また違った空気を感じることができる。最後に宝物殿を見物しておく。時間をみるとお昼をまわったところなので、近くで食事をすることにした。ここまで来たからには出雲そばを試さない手はない。今日は幸いにも気温は低くなく過ごしやすい。これなら割り子そばもいいかもしれない。
出雲そばは高校生のときに味わったあの独特の風味とはちょっと違ったような気がした。万人受けとでもいうか、それとも自分が大人になったせいか、何だかちょっと物足りない感じもしたが、まぁそれはそれとして満足のいくものだった。さて、まだ少し時間があるので、もうひとつ行ってみたかった旧JR大社駅へと向かうことにした。距離にして2キロ弱、ちょっとした運動にもなる。正面から参道をたどり、出雲大社を後にする。参拝の順番が違うような気もするが、さらに道路づたいに進んでいく。大きな鳥居を通った先に一畑電鉄の駅があり、旧大社駅はさらに先にある。確かに距離はあって離れていた覚えはあるが、こんなに殺風景だったか記憶がはっきりしない。
いい加減歩いてきたところに旧大社駅の看板が出ていた。確かにきれいに保存されている。早速中に入ってみると、これまた息を飲むほど見事に手入れが行き渡っており、時間が止まったかのようだ。出雲大社への一般参拝客だけでなく、ときには皇族方も受けいれることもあったというが、威風堂々という言葉がぴったりする駅だ。貴賓室あり、最初から二等と三等で待合室が分けられてるつくりになっていたりと、単なる片田舎の小駅ではなかったことがよく分かる。この駅がどんな駅だったのか余計な説明は不要だろう。改札があった場所を抜けてホームに出ると、今でも列車が到着するのではないかと思うくらい、そのたたずまいには圧倒される。ぽつりぽつりではあるものの訪れる人は途絶えることなく、D51やゆかりの品々の展示などもありちょっとした名所になっている。少し疲れたので駅の中のベンチでぼんやりしながら小休止し、帰りの電車の時間に合わせることにした。
どれくらいいただろうか、何だか去るには名残惜しい気持ちでいっぱいだった。再び来た道を戻り一畑電車の駅へと歩いてきた。大体1時間に1本といった感じだろうか。JRの旧大社駅ほどではないにしろ、ここの駅もなかなか雰囲気があっていい。次の電車を待つ間に周囲を見たり、止まってる列車を眺め見ていた。出札が始まり、2両編成の川跡行きへ乗り込む。またも昔の思い出話になってしまうが、あのときは夏休みのとても暑い日で、非冷房はもちろん吊掛けの古い電車だった。そういえば、向かいの人が読んでたスポーツ誌をみて阪神ファンだった友人が勝った勝った!と反応してたっけ、、、何かひとつ思い出すとそれをきっかけにまた余計なことを思い出していた。
ガタガタ揺れるのは車両のせいではなく、路盤のせいだということは明らかだった。これだけは20年来さほど変わっていない。川跡駅では松江方面、出雲方面両方向とも接続となり、踏み切りを通って隣のプラットホームへまわらなければならない。乗り換えのホームでは右側通行での交換なので、行き先を慎重に確認する。ここで方向を間違えたらえらいことになる。電鉄出雲市行きの電車に乗換え出発を待つものの、乗ってる人の席の向きが前後逆なので心配になるが、これは一畑口で進行方向が逆になったせいだと想像できる。3、4駅進んで、無事に電鉄出雲市駅へ戻ってきた。
夜行を利用したとはいえほとんど日帰りに近いので、帰りは飛行機を利用しなければならない。やや天気が悪くなってきたが、大きな問題ではないだろう。すぐ近くには出雲空港があるのだが、いつもの悪いクセでひとひねり入れる。出雲市から山陰線を利用してもう少し離れた場所へ移動できないか考えてみたところ、スーパーおきに乗り換えて益田へ移動し、萩・石見空港から東京に戻るというルートが見つかった。ただ出雲市駅でのタイミングがよすぎるのと、何しろ自由席1両+指定席1両なので前もって指定を取っておくことは済ませてあった。残念ながら海側の席でなかったが、きちんと調べればよかったかもしれない。この区間のスーパーおきは過去にも経験があるので、この走りっぷりも初めてではない。ところで、高校生だったあのときは山陰号を降りて出雲大社を往復したあと、1日かけて鈍行で下関へ移動していた。それも下関まで乗り換えなし、頻繁に繰り返す長時間停車ありと、今ではまるで考えられないダイヤだったが、あのときも特急が誇らしげに走っていたのはとても印象的だった。
前述通り萩・石見空港へ寄ったのは単なる気まぐれで、そうも行かない地方空港を利用してみるのも悪くない?という程度のものだった。いつ開港したのかは知らないが、それほど古い空港でもない。益田駅前から空港行きのバスに乗り、15分ほどで到着する。徐々に暗くなる時間帯でもあり、ちょうど小型のジェット機が東京から到着したところだった。東京往復1便、大阪往復1便の本当に小さな地方空港で、待合室もこれまたえらく狭い。一畑電鉄からはほとんど分単位での乗り継ぎだったでちょっと心配ではあったが、これで無事に東京に帰れる。どういういきさつか分からないが、石見神楽が演じられて狭い建物中に賑やかなお神楽が響き渡っていた。今日の東京便は本当に満席でキャンセル待ちも十分に対応できなかった様子である。今日が特別なのか計り知れないが、普段の利用率はどれほどなのだろう?